誰かを愛するという感情は、いったいどうして突然に生まれるのだろう。
もう誰かをこんな気持ちで待つなどということは、ないと思っていた。
僕は、公園のベンチに腰を下ろし、空を見た。
あれから、一月近くが過ぎていた。世界はクリスマス一色になっていて、遠い異国の神の生誕を祝う歌が、あふれている。
「牧人、羊を守れるその宵、妙なる御歌は天より響きぬ」
僕はクリスマス・キャロルを口遊む。
毎日、ここへ来て、彼女を待っている。いつ現れるか分からない、その人を。
待ちながら、彼女がどんなひとかを考えていた。
優しい心を持っているだろうか。とんな環境で育ち、どんな想いを抱いて生きてきたのだろうか。そして、世界は彼女にはどいういふうに映っているのだろうか。
『……私は、どうすればあなたの力になれるのだろうと思う。もしも、あなたに近付くことが出来たとしても、あなたがどう思うかは分からない。でも、私にとってあなたは、間違いなく一番出逢いたいひとだ。私はあなたが綺麗なひとだったらいいと思うけれど、必ずしもそうでなくても構わない。あなたは私が好きになれるひとだ――。そう、たぶん熱烈に……』
数十年の時間を隔てて恋に落ちた青年は、彼女にこう書き送る。『愛の手紙』という小説の一節だ。
そうだ、そもそも彼女は今、実在しているのだろうか。ひょっとして小説と同じに、何かに隔たれて、永遠に出逢うことはないのだろうか。
「喜び讃えよ。主、イエスは生まれぬ」
救い主は現れた。遠い二千年の昔に。待ち続けた人々の願いは、叶えられた。
なら、僕の願いは叶うのか?
ポケットのリボンに触れる。その柔らかな感触が、あの夢のような出来事を信じさせてくれる。
君が現実に在るのだと、信じられる。
「……約束はしていないわ」
声が聞こえた。
「約束なんてないのに……、どうして待っているのよ?」
白っぽい夏物のワンピース。
僕は彼女に微笑みかけた。
「イイヅカケイコさん」
僕は立ち上がり、ポケットからリボンを取り出す。
「忘れ物をお届けに、お待ちしておりました」
淡い薔薇色のリボン。
「リボンなんか、どうだっていいじゃないの。捨ててしまえば、待っている理由はなくなるでしょう? 待つ必要なんて、ないじゃない」
困惑した表情。
「でも、僕は君を待ちたかったんだ」
訊ねてみたかったことが、たくさんある。
「そのためには、何か理由が必要だから。君に逢うためには、何かがいるけど、僕にはこのリボンのほかには、君と結ぶものは何もないんだ」
彼女の表情が硬くなる。
僕は彼女にリボンを差し出した。
戸惑いながら、彼女はそれを受け取り、以前と同じように髪を結んだ。
「どうして私を待ちたいと思ったの? あなたにとって私は、得体の知れない幽霊じゃない」
「得体の知れない幽霊、と言われれば、そうかも知れない」
僕は肯定した。それは真実に近いものがあったからだ。
「けれど、誰かに逢いたいという気持ちに、理由は必要ないとは思わないか? 逢うために、理由が必要になる相手だとしても」
訊ねてみたいことが、たくさんある。
「……そうね。誰かに逢いたいって気持ちには、理由なんかないものね」
彼女は空を仰ぎ、遠くを見つめる瞳をした。
長い髪が、揺れる。
ゆったりとした癖のある髪は、艶やかな漆黒。月の明かりに照らされて、青くひかりを発つ。それは彼女のほっそりした横顔を、縁取っていた。
世界は静寂。まるで、時間が留まってしまったかのようであった。
「……病院にいるって言っていたけれど、どうしてなんだ? もし、よければ話してくれないか?」
アイタイキモチ。
アイスルキモチ。
ここに、君が、いる。
僕と、言葉を交わしている。
けれど、それだけでは想いが届かないから。
「――あなた、恋をしたことは? 誰かをどうしようもなく好きになったことくらい、あるでしょう?」
沈黙の後、逆に訊き返される。
「あるよ。フラれて一年になるかな」
気持ちは、時間の経過とともに、呆気なく離れていってしまうものだと、知った。
誰かを好きという気持ちは、その相手のどれだけ近くに自分の存在があるのかということに、大きく左右されるのだと、思い知らされた。
「フラレたの……? どうして?」
彼女は真っ直ぐに僕を見た。その真摯な瞳が、一瞬言葉を失わせた
――とても綺麗なひとだった。
雪のような儚さと、冬の大気のように凜とした雰囲気を持つ、そんなひとだった。
僕の心に刻み込まれたその真っ直ぐな視線は、すこし憂いを含んでいて、それが想いに影を落としていた。
「時間的な擦れ違いが重なったことが、直接の原因かな……? けれど、僕が忙しさに追い立てられて、譬え一瞬でも彼女のことを忘れていたのは確かなことだし、それが負い目になってはいる」
もう、恋なんかしないと、思っていた。
あんなにも心から愛しいと思ったひとを、簡単に忘れていられた自分自身が許せなかったし、会えない時間が少し長引いただけで、彼女の心が離れていったということで、恋していた感情自体が、信じられなくなった。
キミニ恋シテイマシタ。
ケレド、ソレハ幻デシタ。
キミヲ愛シテイマシタ。
ケレドソレハ、モウ既ニ、過去ノ出来事ナノデス。
――会えない時間が愛を育てるだって?
そんなの、嘘っ八じゃないか。
「彼女はとても寂しがり屋で、ひとりで待つ時間が耐えられなかったんだ。僕はというと、何とか就職先が決まったと思ったら、すぐに研修だとか何だとかで、ずっと忙しくしていて……。気が付いたら半年経ってた」
――すごく馬鹿だったと思う。なんで気付かなかったのか、分からない。彼女のことを、よく知っていたはずだったのに、どうしてそんなに長い間、会わずにいられたのか。
「半年……?」
彼女が訊き返す。
「そう、半年」
僕は大きく息を吐いた。
「そして、その僕がいない半年の間に、彼女はずっと彼女の一番近くにいた男とつき合い始めてしまっていた、というわけだ」
最後に逢った時に、彼女の貎のよい唇から、短くて決定的な別れの言葉が紡がれた。
サヨウナラ、と唇が動いた。
僕がその時、なんと応えたか、まるで記憶に残っていない。
“本当に寂しいとき、彼は私の傍にいてくれたの。だから、私は彼を選びます”
半年の間に、なにがあったのか分からないし、彼女がどんな気持ちでいたかなど、知り様もない。けれど、そのふたりの共有出来なかった時間が、これから先、ふたりの未来が重ならないことを運命付けてしまった。そのことだけは確かだ。
「……私、分かるわ。その人の気持ち」
透き通った声が、僕に投げ掛けられる。
「ずっと待っているだけの、不安な気持ち、よく分かるわ。約束もなにもなくて……、それでも、彼のことが好きで、確かにあるのはその好きっていう自分の感情だけで……。会ってないから、相手の気持ちを確認することも出来ないし、そのうちに確かだと思っていた自分の『好き』っていう感情も、グラついてきて……。でも、彼のことを考えると心が痛くなるから、その痛みだけで必死に好きっていう『想い』にしがみついているの……。なんだか、すごく馬鹿げてるけど、これだけが真実(ほんとう)のことだって、思ってた」
会いたくて、でも会えなくて――。
胸が痛くてたまらない。
ずっとあなたを想っていました。
会えない間、朝も、昼も、夜も、真夜中に見る夢の中まで、あなたへの想いがあふれていました。あなたへの想いだけで、いっぱいでした。
だいすき。
毎日、毎晩、想っているわ。
今日は会えるかしら。
明日ならどうかしらって。
――会いたい。
声が聞きたい。
ただ、あなたに会いたい――。
「……ねえ。約束がないのに、待っていてはいけないの? ただ、会いたいっていう気持ちだけではだめなの? 迷惑? それなら、どうして、はっきり迷惑だって言ってくれないの?」
彼女の声が震えた。
「私がこんなに好きなんだから、そう言ってくれれば良かったのよ!」
彼女は、泣いた――。
泣いて、泣いて――、そして、その涙は宝石のように闇の底に落ちていった。
好きという気持ちが、あふれだす。
けれど、それは僕に対する想いではなく、僕の知らない誰かへのものだった。
“だいすき”
届かない、想い。
届けたい想い。
どうして、悲しい想いばかり、世の中には増えてゆくのだろう。ほんの少し、擦れ違っただけで、伝わらなくなってしまう。受取人不明の想いだけが、宙に浮かんでいる。
ああ、そうか。
寂しい心が共鳴している。彼女と僕と、同じ傷を持っている。
確かめたくても、確かめられない気持ちを、抱えている。
心はほかの誰かのもので、だけど、その誰かには必要とされていない。だから、心は曖昧なまま、凍ってしまった。
時までもが、すべて、留まったまま。
「……僕は、約束なんかなくても、君を待っていたよ。君はどう思った? 馬鹿な男だと思った?」