同じ気持ちを抱えているのを無意識に感じ取ったから、僕は彼女に惹かれたのだと、今、分かった。だけど――。
彼女がゆっくりと顔を上げる。涙の跡が頬に残っているのを、彼女は指で拭った。
心が、揺れる。
走り始める、再び。
「そんなこと、思わなかった。ただ……、ほんの少し驚いて、それから、戸惑って――」
言いながら、髪を結んだ薔薇色のリボンに触れた。
「嬉しかった……」
そう小さく続けた。
「このリボンは、彼からの一番最初のプレゼントだったの。はじめはもっと別のものをプレゼントしてくれるつもりだったみたいなんだけど、一緒に入ったお店で、このリボンがすごく気に入って、自分で買おうとしたんだけど、結局、彼が買ってくれたの」
ねえ、あの頃は、幸せだったね。
「……嬉しかった。ずっとずっと忘れないわ、その時の気持ち。だって、初めてだったんだもの、好きな人からの贈り物って」
ずっと、忘れない。
「彼とは違う大学だから、どうしても擦れ違ってしまうことが多かったの。だけど……、友達から彼が別の女の子と付き合っているって話を聞いて……、信じられなかった」
いいえ、違うわ。信じたくなんか、なかったのよ。
だって、そうでしょう? 私のことを「好きだ」って言ったのよ。
「会いたくて……、でも、会えなくて、それでも声だけでも聞きたくて、電話をして……、訊いたの。そしたら、彼、『ゴメン』って……」
それが、すべてだった。
「ずるいわ。他に好きな人がいるのなら、どうして言ってくれなかったの? そうしてくれれば、こんなに苦しい思いをすることもなかったのよ」
あなたが、好き。
好きだから、苦しめたくなかったのよ。だけど……。
「……なのに、どうしてこんなに会いたいの? 会いたくて、会いたくて……。どうすればいいのか、分からなくて……。気が付いたら、睡眠薬を飲んでいたの」
どうして……? ただ待っているだけだったから、いけなかったの?
――確かめれば良かったのよ。それをしなかったのは、私の所為。だってそうでしょう? 彼が私から離れていくのは、誰の所為でもないのだもの。誰かを好きになる気持ちは、誰にも止められない。そんな権利は、誰にもないわ。
「――彼は君に会いにきた?」
僕は訊いた。
「いいえ」
彼女は答えた。
「たぶん、私が入院していることすら、知らないでしょうね。私自身はそんなつもりはなかったのだけれど、自殺未遂をしたことも、ずっと、眠ったままの状態なのも、全然、知らないと思うわ」
眠り姫の物語。
王子様がやって来て、百年の眠りを覚ました。けれど、その王子様が現れなかったら、眠り姫は目覚めることがなかったのか?
眠り続けて、そのまま朽ち果ててしまうのだろうか?
「……君は、まだ彼のことを好きでいるのかい?」
心が、動く。
ずっと、凍り付いていた心が、走り始める。
「分からない」
彼女は大きく息を吐いた。
「だって、私は彼が総てのまま、時間が留まってしまっているのだもの。どうしようもなく好きな気持ちのまま、動けないのよ。だから、目を覚ますのが恐いの」
現実を受け入れるのが、とても怖い。
目が覚めたら、全部見なければいけない。目に映ること総てが、現実。そうして、彼を失ったことを、再び思い知るのだ。
彼女が目を伏せる。その横顔が、ひどく悲しげで……。僕は胸が痛くなった。
「……君を待っていても、構わないかな?」
彼女が驚いたように、僕を振り向いた。
「どうして?」
揺れる気持ちが、方向を定めて、動き始める。
「多分、君は僕が好きになれるひとだから」
そうだ、これは恋のはじまりに似ている。
誰かに向かって、心が走り始める。その心地好さを、ずっと僕は忘れていた。
まだ、大丈夫。きっと、大丈夫。僕たちは、また歩き始めることが出来る。君と僕とは、同じ傷を持っているから、分かるんだ。
「これ以上の理由は、必要かな。……きっと、僕は君を好きになる。今はまだ、お互いに昔の恋を引きずっているけれど、君が今見ている長い夢から醒めたら、僕が君を待っていることを思い出して、会いに来てほしい。僕はここで、君を待っているから。もし、君が迷惑でなければ、だけれども」
あなたが、必要なのです。あなたが実在するという、その存在が必要なのです。決して、夢を見ているわけではないのたと、信じさせてください。
「応えをくれるかい?」
彼女の瞳が、揺らいだ。
涙を零さないように、瞼を閉じ、空を仰ぐ。そして、大きく息をした。
「……あなたの、名前を教えて」
静かに、彼女が問いかける。
「鷹野遊也(たかの ゆうや)」
ずっと、心が空っぽだったんだ。
どうしたら満たされるか、分かっていたけれど、気付かないふりをしていた。見ないふりをしていた。
きっと、怖かったんだ。
また、繰り返してしまいそうで、傷付くのを恐れていたんだ。
寄り添った心と心が、離れていく時の痛みを知ってしまったから。けれど、傷付くのを怖がっていては駄目だ。
「君」のことを、好きになりたい。
「特別な想い」で、見つめていたい。
世界は、ただそれだけで色を持って、回り始める。
「……ありがとう」
微笑んだ、その君を、忘れない。目に、心に焼き付けて、絶対に忘れたくない。
きっと、大丈夫。僕らは、また、出逢える。
そんな予感がするんだ。
「でも、約束はしないわ。未来は真っ白なほうがいいもの。あなたの心を縛りたくないし、私も縛られたくないから。……私たちは自由よ。だから、あなたが此処で誰かを待っているとしても、その誰かが『私』でなくてもいいの。他の誰かをいつ好きになっても構わない。あなたが、そして私が誰を好きになるかなんて、分からないもの」
傷付けるのも、傷付くのも、始まってもいない恋なのに、振り回されたくない。
「だけど……、本当はわたしも、あなたを好きになりたいわ……」
心が、揺れる。
誰かが誰かに出逢い、恋が始まる。
僕らは、厳密に言えば、出逢ってさえいない。だから、恋が始まるはずもない。
キミニアイタイ。
キミヲアイシタイ。
キミヲスキニナリタイ……。
僕には心がある。誰かを愛する気持ちを、ちゃんと持っている。そして、彼女にもそれは存在するのだ。
(あなたを、好きになりたい)
傷付いて、傷付けて、誰かに心を向けることさえ怖くなって。
たったひとつ残った「想い」に、しがみついていた。
既に過ぎ去った「想い」なのに、確かに自分にも誰かを好きになれる心があるのだという証拠のように、大切に抱き締めていたのよ。
(この長い夢から醒めたら……)
誰かともう一度、恋をしよう。
もしも、それがあなただったら、どんなに幸せだろう。
けれど、まだ私の心には「あの人」が住んでいる。
「でも、待っていて欲しいなんて、言えない。あなたが私を好きになるか分からないし、絶対にあなたを好きになるっていう自信もないもの。だから、約束はしないわ」
そうだ、これは「恋の始まり」に似ている。けれど、そのまま終わってしまうかも知れない、淡い想いだ。
「約束なんか、なくていいよ」
約束だって、不確かなものだから。
未来は、誰にも分からない。
「確かに、君の言う通り、僕が他の誰かを好きになるかも知れない。未来のことなんか、誰にも分からないだろう? こう言うと不誠実に聞こえるかも知れないけれど、今は、君のことを待っていたいんだ」
そうだ、君が目覚めるのさえも、不確かなことだ。
目覚めて、長い夢を見ていたと思っても、その内容を覚えているとも限らない。
永遠に擦れ違ってしまう可能性だって、大いに有り得る。
――君のことを好きになりたい。
けれども、今のこの気持ちだけは、確かなものだ。偽りはない。
「――もう、行かなくちゃ。リボンをありがとう」
伏し目がちに、寂しげに彼女はそう言うと、僕に背を向けた。
「君を待っている! ここで、君が来るのを待っていてもいいだろう?」
彼女が振り返る。
「あなたのこと、忘れない……、いいえ違う、忘れたくないわ。さようなら、タカノさん」
目覚めて、ただ、長い夢を見ていただけだと、思いたくない。あなたに確かに出逢ったのだと、覚えていたい。……忘れたくない。
出逢いたい。確かな想いを抱き締めて、もう一度、本当に巡り逢いたい。
微笑んだ彼女の、その穏やかな表情が、眩しくて……。
眩しくて、何も、見えない……。
気が付くと、彼女の姿は失われていた。
手のひらには、あの淡い薔薇色のリボンの柔らかな感触だけが、残されている。彼女と繋ぐものは、もう何処にもない。
ふいに、耳に目に、現実が戻ってくる。
クリスマスのイルミネーションに彩られた街並みに、グノーのアヴェ・マリアが聞こえる。それが静かに終わると、余韻を引きずるように、”Christmas song”が流れ始めた。
『一年中待っていたわ、春も秋もずっと、銀の鈴が鳴り響くのを。冬はどんな時よりもいちばん幸せな季節を運んでくるから……』
街にあふれるクリスマス・キャロルが、月の輝く夜空に、高く昇っていった。
記憶の中で、通り過ぎた恋人がささやく。
――どうして傍にいてくれないの? いつもいつも、傍にいて。いつだって、その温もりが感じられるほど。息がかかるくらい私の傍に、いて。
そうして、遠ざかる記憶の恋人は、つぶやく。
――私が必要なほど、あなたに私は重要じゃない。私があなたを必要としているほど、あなたは私を必要としていない。私の重さを感じないの? 好きという気持ちは、本当に私のところにあるの? 私にはもう、信じられない。だから……、さようなら。私は、本当に傍にいてほしいときに、傍にいてくれる人を選ぶわ。
季節は巡る。
あれからどれだけの時間が、過ぎていったのだろう。
僕は思った。
午後八時。
僕は毎日仕事帰りに、ここで彼女を待ち続けた。
この頃は幾分寒さも和らいできて、コートは既に必要なくなった。公園の木々も、若葉を付けはじめている。
木蓮の花も、盛りのころだ。ぼんやりと月明かりに照らされて、幻想的ですらあった。
――君を、待っている。
どうしても逢いたいひとがいます。そのひとは、とても綺麗なひとでした。透き通るような声と、澄んだ瞳を持ったひとでした。
彼女を待ちながら、僕はずっと以前に読んだ物語を、思い出していた。
その物語は、こんな一組の男女の物語だ。
どうしても世の中の枠組みに入り切れないでいるもどかしさを抱えている男の所へ、行き場を失った女が転がり込んでくる。彼のことをずっと好きだったという彼女を、彼は受け入れて二人で暮らし始めるが、お互いに大人になりきれず、傷付けあってばかりいた。けれど、一年が過ぎ、やっと互いに思いをかけあえるようになった時、彼女を捜し続けていた彼女の家族によって、引き裂かれることになる。一緒に暮らしていた人を連れ戻され、彼はひとりに戻ったのだが、ひとりになって初めて、そのひとが自分の心の中にどれだけの大きさを占めていたのかを知ることになる。
『面白いだろう? 爪がのびてんだ。俺はそれが気になって切ってる』
彼は友人に言う。
『あいつがいないのに、腹が減る。あいつがいないのに、仕事に行って、愛想笑いをしている自分がいる。あいつがいないのに……、何故俺は息をしているんだ?』
そして、彼の心の中で、彼女の存在は育っていく。
強さと弱さを同時に持っていたひと。物静かな横顔が、時にとても強い意志を持って、未来を見据えていたこと。
そして、「別れる」ということを彼は思った。「別れるとは、これから先に二度と会わないこと」だと、そう思ったとき、彼は泣いた。
泣いて泣いて、彼女を想い続けて……、彼は彼女を迎えにいく。
『失敗を繰り返してもいい。おまえを好きだという誇りが、俺にはある』
待つことしか出来ない、もどかしさを抱えて、僕は時を過ごした。幻でも構わない。
もう一度、君に逢いたい……。
ずっと、君を捜していた気がするんだ。
君が同じ時代に生まれてきてくれて、良かったと思う。
君が僕と同じ時代に生きていてくれて、良かったと思う。
擦れ違いたくはないんだ。
『愛の手紙』のジェイク・ベルクナップとヘレン・エリザベス・ウォーリィのように、確かに互いに恋をしたのだという、確信的な思いを懐いても、ニューヨークの、それもブルックリンのものの3ブロックも離れていない場所に住んでいながら、1882年と1962年という八十年の歳月に隔てられて、『永遠の思い出』にしか成り得なかった、なんていう悲劇にはなりたくないんだ。
僕はベンチに座ったまま、空を見上げた。
明るい都会の夜空に見えるのは、月と一等星が幾つか瞬いているだけだ。
大きく息を吐くと、再び視線を地面に落とした。
――君を、待っている……。
何人かの足音が、聞こえる。そのうちのひとつが、僕に近付いてくる。
あと少し。あともうほんの少しで、僕のところへやって来る。
鼓動が速くなる。
僕は耐え切れなくなって、目を閉じた。
そして――。
僕の前で、その足音は止まった。
「……こんばんは」
透き通った声が、僕に投げ掛けられる。
「誰かと待ち合わせですか?」
僕は顔を上げて、その声の主を見た。
どうしても、逢いたいひとがいる。そのひとは、とても綺麗なひとだった。譬えるなら、儚い、柔らかく降り積もる雪のような、そんなひとだった。
心が、揺れる。
心が動き始める。
僕は彼女に向かって微笑んだ。
そうして、言った。
「君を……、君をずっと待っていたんだ」
彼女はとても綺麗に笑った。
その笑顔は、それまでに見たどんな表情よりも美しかった。
髪を飾る、淡い薔薇色のリボンが、風に揺らいだ。
――さあ、もう一度、勇気を出して。
恋を始めよう……。
(了)
last up 2001.02.03