何故そんな馬鹿な話を大のオトナが大真面目にするのか、僕には全く見当もつかないが、とにかく近頃この官庁街を賑わしている噂がある。
午後八時。
僕は残業を終えて、職場を後にした。
そして、いつものとおりに地下鉄の駅まで、公園を横切って歩いた。何故なら、官庁街にあるその公園は、この時間になると人影もまばらで、公園内にある音楽堂でなにかイベントでもない限り、閉館時間の図書館から本を抱えて出てくる人にぶち当たるくらいで、本当に誰ひとりであうこともない日もあるからだ。それに、ここの噴水――明治時代に制作されたというから、もう百年くらい経っているのだろうか――の鳥が大きく翼を拡げた姿が、薄闇にぼんやりと浮かび上がるのが、とても好きだったこともある。
時は十一月。
僕は、その日、初めて「彼女」に逢った。
冷たい風が吹く中、彼女は白っぽい夏物のワンピースを着て、静かに噴水の彫像を眺めていた。
(僕は何も見なかった)
僕は踵を返すと、急いでそこを立ち去ろうとした。
「あ……、あのぅ……」
呼び止められる。
「ああ、良かった。お願いがあるんです。リボンが木に引っかかってしまったのだけれど、手が届かなくて困ってしまって……。とっていただけませんか?」
彼女は言いながら、木を見上げた。
そこには淡い薔薇色のリボンが、枝に引っかかったままユラユラと揺れていた。
「リボン……ね」
僕は彼女の傍らへと行き、手を伸ばして枝に絡まったリボンを注意深くとった。なるほど、彼女の身長では手が届いたとしても、何処かに引っかけて幅広のリボンを破いてしまうかも知れなかった。
「はい。たぶん何処も破れたりしていないとは思うけど」
小さな枝がリボンの端に引っかかってしまったのを、無理してとったので、少し綻びてしまったのを気にしながら、彼女に差し出す。
「ありがとうございます」
そう微笑みながら礼を述べつつ、彼女が受け取ろうと、その白い手を伸ばし、リボンに触れようとした瞬間。
僕の手の中に薔薇色のリボンを残したまま、彼女の姿は忽然と失われてしまったのであった。
僕は、この間の十月で二十四歳になった。去年の四月、この大不況の中、何とか某官庁に潜り込み、二年目になる。世の中の不況の風は、役所にも吹き込んできており、人員削減だの合理化だの、いろいろ進められていて、みんな疲れているのが、二年目になってだんだん見えてきていた。
だからだろうと思っていた。
“公園の噴水の辺りに、幽霊が出るらしい”
そんな噂話。
疲れがたまって、そんな錯覚を起こして、散歩している人を見間違えたのだろうと思っていた。
ところが、僕は出逢ってしまった。
公園の幽霊に。
(夢じゃないことは確かなんだがな)
僕はポケットの中のリボンに触れた。
淡い薔薇色のリボン。
『リボンが木に引っかかってしまったのだけれど、手か届かなくて困ってしまって……。取っていただけませんか?』
彼女はそう言って、傍らの木立を見上げた。
今にして思えば、その仕草、その声、その存在の総てひとつひとつが、透き通っていて、現実味を帯びていなかった。(もっとも、この寒い時期に夏物のワンピースなんか着ていること自体、狂っているが。)
あれから何日経ったのだろうか。けれど、彼女はあれ以来、姿を現さない。
そして、僕はこのリボンが捨てられない。
スーツのポケットにいれたままの、皺くちゃのリボン。
彼女は少し、寂しそうに笑った。最後に見たその表情が、何故か、目に焼き付いて離れない。
そうして、僕は気が付いた。
そうだ、この気持ちは、恋のはじまりに似ていた。
気付いた瞬間、僕は苦笑いをしていた。もう、こんなふうな気持ちなど、僕の心の何処にも残っていないと思っていた。
(変な感じだ)
机の上に広げた書類や膨大な資料の山を片付けて、そのうちのいくつかを鞄に放り込んだ。金曜の夜だったからだ。月曜の朝イチで提出予定の書類を、この週末に仕上げなければならなかった。
心が、動く。
コートを着ると、役所を後にして、例の公園へと足を向けた。「彼女」がいようといまいと、元々僕は地下鉄の駅を利用するのにこの公園を横切っていたわけだし、なんの問題もないはずだ。金曜だというのに、今日は飲みに行こうと言う奴もいなかった(ああ、金曜の夜だから、か)し、彼女に初めて出逢った日と同じ、午後八時に、僕は噴水の前を通りかかった。
薄闇の中、池の中心に鳥が翼を拡げて飛び立とうとする姿が、ぼんやりと浮かび上がっている。
それを見つめていた白い影が、ゆっくりとこちらを振り返った。
「こんばんは」
その女(ひと)は、そう僕に言った。
「……こんばんは」
僕はそう応えた。それから、彼女のほうへ近付いていった。
「はい、忘れ物。皺だらけになったけど」
ポケットから、薔薇色のリボンを取り出した。
「……ありがとう」
彼女は少し驚いたふうで、それからその白い手を伸ばしてリボンを受け取った。
「本当に皺だらけ」
クスリと笑った。
「仕方がないだろう? 返そうにも君にいつ会えるか分からなかったから、ずっと持ち歩いていたんだ。まったく、幽霊なんかの忘れ物を預かっている身にもなってみろよ」
連絡も取れない、本当に実在するのかも分からない、そんな厄介な相手の忘れ物。綺麗な淡い薔薇色のリボン。
彼女はリボンをあちこち引っ張って皺をのばすと、それで髪を束ねた。艶やかなその髪に、薔薇色が良く映えていた。
「私は幽霊なんかじゃありません」
静かに彼女は僕に言った。
「ちゃんと生きています。調べてもらってもいいわ。たぶん休学になっていると思うけど、S女子大の三年に飯塚景子(いいづか けいこ)って登録されているから。学籍番号は319672番」
イイヅカケイコ。
「死んでいるなら除籍になるはずでしょう? 証拠にはならないかも知れないけれど、私は生きているのよ。――ただ、病院のベッドの上で、だけど」
ああ、なんてことだ。
「病気かなんかなのか? じゃあ、僕の目の前にいる君は何者なんだ?」
「そんなコト、どうだっていいじゃない? それよりも、私はあなたのほうが不思議だわ。こんな非常識な状況を、よく受け入れられるわね」
揺れる薔薇色のリボン。その持ち主の瞳が、真っ直ぐに僕を見据える。
――綺麗なひとだった。静かな、そう、柔らかく降り積もる雪のような感じの、ひとだった。
忘れていた「想い」が、鮮やかに蘇る。
「……仕事がキツくて、壊れているんだよ、たぶん」
心が、動く。走り始める、再び。
何故だろう。どうしてだろう。一年も凍っていた心が、溶けていく。一生凍ったままだと思っていた心が、熱くなっていく。
寂しそうに笑った、その表情が僕の心を捕らえて離さない。
無垢なその瞳を曇らせるのは何なのか、知りたくてたまらない。
フッと彼女は目を逸らすと、僕に背を向けた。
(行ってしまう)
僕はとっさに、彼女の髪に揺れるリボンを掴んだ。
スルリとリボンは抜けて、髪が解ける。驚いた顔の彼女が、僕を振り返る。
「何処に行けば、君に逢える?」
短く、僕は訊いた。
「……教えない」
彼女は冷めた瞳で答えた。
「それなら、今度いつ、ここに現れる?」
消えてしまう。まだ何も、確実なことを手に入れていないのに。
「それは分からない。私にも、全然。いつもたどり着けるかは分からないし、私がここにいても、あなたが私を見付けられないかも知れないもの。……約束は絶対にしないわ」
風に髪を揺らせながら、彼女は静かに言った。
「絶対に、しない……」
ふわりと、彼女の体が風になびいた。そして、そのまま魔法が解けたように、その姿は失われてしまった。
再び、僕の手の中には、淡い薔薇色のリボンが残された。
言い様のない愛しさと、寂しさが混じり合った感情が、胸に沸き上がってくる。――これは夢の中の出来事なのだろうか。違うとすれば、手のひらに残された柔らかな細い布一枚が、それを現実とつなぎ止めているだけなのだ。
それは十一月も終わりの頃の出来事。
空を見上げれば、満ちゆく月が輝いていた。