水しぶき


 「あっつーい!」
 久し振りに降り立った名古屋駅のホームは、クソ暑かった。――いや、失礼。私はとても口が悪いので、気をつけなければ、すぐに地が出てしまう。しかし、話は変わるが、まったく、何でこんなに暑いんだろうね。ふう。だいたい、どうしてその日の日本中での最高気温を叩き出すのが名古屋なんだ。普通は沖縄か南九州のどっちかが出すのが妥当だろうが。今日なんざ、39度だぜ、摂氏39度! 正確には38度9分だけど、華氏で102度。こう言い換えると、ドッと暑さが増すだろう。ふふっ、ざまぁみろ(何が?)。
 あ、言い忘れてました。私、田中梅香。年齢22歳。性別、女。独身! 東京の某大学の、ここだけの話、五年……。卒論が通らなくって、卒業が出来なかったんだよね、トホホ。まあ、不況のせいで就職先が見つからなかったのが、不幸中の幸いだったかな。内定もらってて卒論がとおらなかったら、目も当てられないからね。
 「あ、かーさん。私、梅です。……あ? 何言ってんのよ、梅香だよ、娘の名前忘れたの? 酷いなあ……」
 ホームから家へ電話を入れる。ラインの向こう側で、母親が恍ける。私は自分の名前が嫌いだ。ウメカなんて名前を付けた、両親の神経を疑うし、同居している祖母に至っては私のコトを「お梅」と呼ぶ。字面は綺麗だが、音が悪すぎると思う。それに性格的にも合っていない。だから私は、大抵「梅」で通してしまう。タナカウメカよりも、タナカウメのほうが、(私には)幾分ましに感じられれるからだ。
 「とにかく、今、名古屋駅にいるから。うん、そう、次に出る電車に乗るから、自動車だして駅まで迎えに来てよ。……何でって、荷物があるのにバスに乗れって言うの? ……え? 歩いて来い? 4キロの道程を大荷物抱えて、歩いて帰って来いと……。はいはい。お願いします、お母様。どうか迎えに来て下さい。これでいいんでしょう?」
 母親が忍び笑いをする。
 「じゃあ、頼んだからね」
 ガチャリと受話器を置いて、テレホンカードを抜き取る。いい加減、頭が熱さでクラクラしてきた。早いとこ電車に乗ってしまおう。どうせ中央線。名古屋が始発なんだから、座るところぐらいあるだろう。
 「ふうっ」
 大きく息を吐く。
 私の実家は、名古屋駅から岐阜県中津川方面(つまりは長野県方面)へ、時間にして約30分電車に揺られた、9コ目の高蔵寺という駅で降りたところにある。閑静な住宅街だ。この街で生まれて、この街で私は育った。そして、この街が、一番好きだ。娯楽的な施設は何もない所だけれど、そこが気に入っている。生活の匂いというものが、そこには存在しているからだ。生きてゆくために必要なものはみんな揃っているのに、、それ以上のものを望むことはしない。楽に呼吸が出来る場所。小奇麗な都会にはない、なんとも言えない雰囲気があって、心が沈んだ時には戻って来たくなる。息をすることさえ辛い時は、その風景を思い出す。思い出すだけで、心が軽くなる。故郷と呼ぶには新しすぎる街だけれど、国定公園が徒歩でゆける範囲にあるので、緑は多いし、水の流れもある。春夏秋冬の山の表情を、私は知っている。木漏れ日の緑。夜空には天の川。思うだけで、穏やかになれる場所。帰る場所があるということは、多分そういうことだ。
 何も要らない。なにも、望まない。
 都会には住みたくないと、私は思った。東京暮らしが5年目ともなると、田舎が嫌になるだろうと思われているようだが、とんでもない。その逆だ。静かな生活が私は恋しい。隣人との付き合いが、煩わしいなど、閉鎖的なところがあるかもしれないが、街中の騒音に比べればどうってことない。――そう、私は名古屋に戻って来たくて堪らないのだった。
 友達がいるからじゃない。友達なら大学にだっているのだから。卒業して故郷に帰ってしまったコもいるけれど、東京にも友達はいる。じゃあ、何故って、街の空気が私にはあわない。ただ、それだけ。
 「昼間だけあって、空いてるな」
 時刻表で確かめた、次に出る列車に乗る。正確がモロに分かるが、真中の車両の真中の座席という、目立ちたがり精神丸出しの場所を何となく選んで座った。
 荷物がデカ過ぎて、網棚の上に乗せられない。仕方がないから、座席の自分の隣に置く。ガラガラに空いた車内には、私の他にはほとんど人の姿はなくて、JRはホントに儲かっているのか、ちょっと疑問に思った。(ア、新幹線で儲けているのか、JR◯海は。)
 動き出した列車。流れはじめた窓の景色が、強烈な夏の陽射しの中の、名古屋の街並を見せている。中村区名駅から、中区金山方面へ。鶴舞、千種、大曽根で名鉄の瀬戸線と陸橋が交差して、赤い列車と擦れ違い、矢田川を越えて新守山。次々に駅を通り抜け、庄内川を越えると、春日井市に入る。昔、豊臣秀吉が勝ち戦の後に通りかかって、「勝ち」と「徒歩(かち)」を引っ掛けて名前を変えてしまった勝川。次に春日井、神領と続き、高蔵寺に着く。春日井市内に入って、神領に近付くようになると、本当に田舎臭い風景になる。それでも、高蔵寺は政府がニュータウン構想のモデル地区として開発しただけのことはあって、何処かしら開けた印象がある。郵便局の配達区には団地のみが集まった団配区があるし。東京の中でも、あんまりないわな、こりゃ。しかし、やはり田舎は田舎。駅の周辺は寂れているし、夜中までやっている店もほとんどない。まあ、健全な街である(子供を育てるのには、最適の街らしい。高校生の頃のバイト先で一緒だったオバちゃんがそう言っていた)。
 「よっこらせ、っと。ホント、重いな」
 高蔵寺に着いたので、荷物を持ち上げて、列車を降りる。ホームから階段を下りて、半地下になっている改札口へ向かう。だが、東京でもそうだったが、抱えた大荷物の所為で、自動改札が通れない。仕方なく、駅員のいるトコロから、出た。駅の南口からの太陽光が、やけに眩しく感じられた。少し足を止めて見ていると、瀬戸市方面へ向かうバスが、ガラスに光を反射させながら、走り去って行った。
 真夏の景色が、広がる。
 私は地下道の状態になっている、薄暗い北口の方面へと足を向けた。ニュータウン内へのバスは、ここから出ている。そして、地上へと階段を上る。
 「……ただいま」
 階段を上り切った所に、母親の姿を見つけた。
 「お帰り」
 なんとなく、気まずい雰囲気。ピンと張り詰めたような空気が、存在した。しかし、それを砕くように、次に母親の顔が大きく崩れた。
 「何なのよ、その大荷物。まるで家出少年のようよ」
 大笑い。どうゆうわけだか、一気に気が抜けた。
 「い、家出少年はないだろ! 私は女のコだよ!」
 「なら、麦わら帽子にTシャツ、ジーパンは止めなさい。二十二にもなって。それにさ、荷物は送ればいいじゃない? 家には誰かいるんだからさ」
 「着払いは不可、だろ?」
 「当然」
 そう、一度着払いの荷物を、受け取ってもらえなかったことがあったのだ。だから多少無理してでも、手荷物で持ち帰ることにしたのだ。荷物を送る金銭的余裕など、私には全くナイ。
 「さあ、トットと乗りな! こー見えてもヒマじゃないんだからね!」
 「そうは見えん」
 急かす母親にキッパリ一言。
 「……男言葉やめないと、トランクに詰め込むよ!」
 「わあっ! そーゆー母さんだって、言葉悪いじゃんか!」
 5cmほど見下ろす身長差の母親に、首根っこをつかまれる。その時、「ああ、帰って来たんだなあ」と、なんだか急に自分の心が、夏の茹だるような大気に馴染んだ気になった。そう、この日本有数の暑さを誇る、名古屋の夏に。
 自動車の後部座席に大荷物をのせ、助手席に乗り込んでパタンと、ドアを閉める。母親がそれを合図にエンジンをかけた。
 「ねえ、かーさん、その恰好って、暑くない?」
 「暑くない」
 短く答える。シフトを入れて、自宅に向けて、自動車を発進させる。車内のエアコンがききはじめ、ラジオのお間抜けなナビゲーターが、昼間っから酒でも入っているのか、ハイテンションなお喋りをしている。「あんた、ホントに外人?」と、ゲストに訊かれ、「ええ、僕は見ての通り、金髪のガイジンです」とナビゲーターは答える。このナビゲーターは、英語の方がアヤシイ、アメリカ国籍のれっきとしたガイジンなのである。
 「その恰好さ、なんか見てるほうが暑苦しい……」
 いいながら、麦わら帽子を脱ぐ。そして、それを後部座席に放った。
 「あんた『心頭を滅却すれば火も自ら涼し』という有り難い言葉を知らないの?」
 「知ってるけど」
 そう言って焼死しろってか? 少なくともその格言残した快川紹喜とかいう坊主は、その負け惜しみのセリフ吐いて焼け死んだぞ。
 「見てるほうが暑苦しいってのは、見てるほうの日頃の鍛練が足らないからじゃあないの、梅香さん?」
 藍染めの作務衣姿の母親は、涼しげに笑う。
 「じゃあ、まだ我が家にはクーラーがないんだね」
 「当たり前じゃない。クーラーなんて、体の調子の狂いそうなもの、必要ない」
 大体、クーラーの効いたデパートに出掛けて貧血でぶっ倒れ、事務所に運ばれた挙げ句、家に連絡が来て、親が迎えに行く羽目になったのは、誰だったかしらねえ……と、高校生の頃の人生最大の不覚とも言えるハナシを蒸し返された。
 「そうでございましたね、お母サマ。重々私が悪うございました」
 低血圧・低体温の私は、体がクーラーの温度調節についていかない(当然ながら、冬の暖房もダメである)。思えば、大学一年の夏、体育実技のグラウンドで、情けないことに熱射病で倒れ、担架で保健管理センターへ運ばれたこともある。その時の気温、摂氏28度。頭が割れるように痛い上、意識がもうろうとしていて、水をかけられて上がり切った体温が下がってゆくのを、他人事のように感じていた。その後、しばらくクーラーの効いた部屋に寝かされ、元気を取り戻した私に、彼等は出身地を訊き、名古屋生まれの愛知県人だと答えると、「ここよりも暑い所から来ているのに、どうして熱射病なんかになるの?」と言われた。結構これはショックな出来事である。赤道直下のアフリカからやって来た人もびっくりの、高温多湿。しかも、他地方の人々に言わせれば、名古屋の夏は無風なのだそうだ。これは東京へ出て、初めて知った話だ。
 風のない、夏。
 海に面してはいるが、伊勢湾・三河湾と、知多半島のおかげで分かれていて、更に濃尾平野を取り囲むように山脈が走っているので、大気が滞ってしまうらしいのだ。言われてみれば、何となくそうだった気もするし、夏に心地よい風を感じた幼少の記憶はあまりない。山の方に住んでいるので、気付かなかっただけかもしれない。だが、大阪人に「名古屋って、暑いんだってねぇ」などと言われたかぁナイ。ついでに京都の人間にも、だ。沖縄や九州は暑さの違いがあるから、まあ許そう。でも、同じ高温多湿仲間でそんなコトを言うのは、悲しいじゃないかい? ああ、関西人は名古屋がキライだから、そう言うんだね。どうせ田舎臭いですし、閉鎖的な上、英語と名古屋弁にしかないと言われている発音がある(しかも、その使用頻度は高い)から言語的にも何か相容れないものがあるのね。三重県も関西に迎合したいのなら、別にいいのよ。名古屋はひとり、孤高を保つのだから(そして孤高の虎となるのさ)。寂しい名古屋。名古屋、そこは白い街。でも、私は大好きだよ、っと。――すっかりお国自慢になっていた。これではイケナイな。
 「今年も暑そうだけれども、どうせ家にずっといるのだから、目一杯扱き使ってやるから、覚悟しときなさいよ」
 楽しそうに母親が宣言する。庭の草むしりに、換気扇掃除に、あ、そうそう、ラジオと掃除機の調子も悪いのよね。
 「私を殺す気かよ」
 溜め息まじりに文句を言う。
 「なら、帰って来なけりゃいいのに。とにかく、あんたはお客じゃないんだから、罰はあたらないよ。大体、一宿一飯の恩義ってやつを見せてもらわなきゃね」
 (そりゃ旅行者だよ、お母さん)
 「――さあ、着いたよ」
 門のちょうど真ん前で自動車を止める。
 「ありがと」
 私は母親にそう言うと、自動車から下り、後部座席から大荷物を取り出した。
 「門は開けっ放しでいいからね」
 「そうだ、暗証番号は変わってないよね」
 「5月の連休に変えたばかりだから、そのままよ」
 私は頷いた。
 実家の門は、どういうわけだかオートロックのキー付きで、暗証番号を入力しなければ、外からは解錠できない仕掛けになっている。極普通のありふれた、いわゆるサラリーマンの一般家庭なのだが、やはり、家の中(庭を含む)で大型犬を飼っている所為だろうか。以前セールスマン(押し売りともいう)が門から堂々と入って来た時に、愛犬は見事な番犬ぶりを発揮してくれて、危うく人死にが出るトコロだったのだ。その事件があって以来、セールスマンやら宗教の伝道師やら訳の分からないものは、一切我が家の周辺にはやって来なくなった。が、体裁が悪かったので、門を大幅に改造したのであった。
 「やっほー、幸子さん、ただいまー」
 秋田犬の幸子さんが、キーを外すと同時に、派手な出迎えをしてくれる。後ろ足で立ち上がり、顔をペロペロとなめられる。幸子さんは確かに大型犬種ではあるが、その大きさたるものはハンパじゃない。そんじょそこらのピレネー犬やセントバーナードも真っ青の大きさに育っているのである(しかも気性は荒い)。
 「あらぁ、梅香さん、よかったわねぇ。幸子さんに忘れられていなくって。ついでだから、お散歩にいってらっしゃい。リードを持って来てあげるから」
 「……承知しました」
 車庫入れが終わって、階段を上がった門のところで、幸子さんと戯れる私を見つけた母親の有無を言わせぬ言い方に、私は素直に従うことにした。そして、手にしたままだった麦わら帽子を被った。
 「はい、いってらっしゃい。良い子に30分行って来たら、アイスクリームをあげるわよ」
 「さ、30分……」
 「荷物はお部屋に運んでおいてあげるからね」
 母親はそう言って、引き綱と移植鏝とビニール袋を渡すと、サッサと大荷物を担ぎ上げて、家の中に入っていってしまった。
 (真っ昼間に30分も犬の散歩ですか、おかーさん)
 しかも、この夏真っ盛りに。
 「いこーかぁ、幸子さん」
 引き綱を幸子さんの首輪につけて、門から出て行く。門を閉じると、ピーッとオートロックの施錠指示の発信音がして、カチャンと鍵がかかった。
 (まあ、アイスノンぐらいは用意しといてくれるでしょう)
 門の外へ放り出されたような気がして、少しだけ嫌な気分になるその施錠音を背中で聞きながら、すっきり晴れた空を、私は恨めしく見上げた。


 クラクラする。
 世の中は夏である。
 アスファルトに陽炎が揺らぎ、逃げ水が現われる夏である。
 そして、私は留年大学生。下手すれば浪人生よりも質が悪いかもしれない。そのうえ、こんな暑い日の昼間は、ベッドで横になっているほかないのだ。頭が痛い。
 痛い、痛いよー。
 「梅香さん、あなたいい加減、夏に帰って来るの、止めにしたらいいのに。無理して帰るから、こういう目にあうのよ」
 突然、ひんやりとした感触が額に当てられたかと思った途端、上からそんな声が降って来た。ああ、暑いと思ったら、扇風機が止まっている。
 「気分が悪い。今年の暑さは異常だよ」
 額に乗せられた氷嚢を、ずり落ちないように押さえた。
 「そういえば、ニュースでも今年は猛暑だとか言ってたわよ」
 母親は他人事のように言う。
 「あら、電話だわ」
 電話の呼び出し音が、遠くで鳴っている。サッと扇風機のスイッチを入れると、母親は電話をとりに部屋を出て行った。
 「ああ、何で世の中には夏が存在するのだ……」
 少し、汗をかいたようだ。私にしては珍しいことだ。汗をあまりかかない体質なので、夏バテになりやすいのだ。
 コンコン……
 「梅香さん、生きてる?」
 ノックから間髪入れずにドアが開き、母親が入って来た。でも、いきなり「生きてる?」はないだろう。
 「電話。佐藤さんから」
 コードレスの電話を持って、ベッドの横に立っている。
 「え……? 砂糖がなんだって?」
 「砂糖じゃなくて、佐藤。下らない冗談を言ってないで、さっさと出なさい」
 電話を寝転んだまま、受け取る。
 「……保留、押したまま」
 「あ、本当だ」
 そのまま「もしもし」なんて言い始めてしまった私に、呆れ顔でそう告げると、母親は部屋を出て行った。
 「あー、もしもし、梅だよ」
 「梅ちゃん機嫌悪そー。やっぱり夏バテ?」
 「……分かってるなら電話かけるなよ」
 まったく、友達がいのないヤツだ。彼女との付き合いは、かれこれ7年になる。高校の頃からの友達だ。だから、私の生態はよーく知っているハズなのである。
 「で、何の用? 事と次第によっちゃあ、ただじゃ済まないよ」
 「分かってるよォ。梅ちゃんが帰って来るころだから、遊ぼうと思って電話したんじゃないのよぅ。絶対家にいるハズだしィ」
 オイオイ、それはひょっとしなくても夏バテしているのが計算に入っているのかい? 痛む頭を抱えながら、考えた。
 「でさぁ、今度の日曜日なんだけどォ、栄のテレビ塔の下で、10時に待ち合わせってことになったんだ。来られるよね、梅ちゃん」
 「……事後承諾ってヤツじゃないか。誰と相談して決めたんだよ、社会人。大体、休みは取れるのか? いつも忙しいサービス業が」
 語尾上がりはやめろよなー。一応デパート勤めなんだろうが。接客態度がそのままだったら、店員失格だぞ、ホントに。
 「何言ってるのよ。この時期、夏期休暇が取れるのよう、7日間連続で。どうせ私は総務課勤務になったし。後は公務員のトガちゃん。他は声かけても無理だったけどね」
 だから、3人で会おうよ、との事。
 「クリスタル広場でもいいんだけれどね、梅ちゃん気分悪くなってもベンチもないしね、テレビ塔のほうがいいと思ったんだ」
 「10時って、夜のか?」
 いけない。頭が真っ白になってきた。
 「……名古屋の夜は、8時で終わりだよ、梅ちゃん。そんな時間になにするのよ」
 いるのは家出少年少女と補導員、それにアヤシゲな人々だよ、と彼女。
 「私が低血圧だって、知ってるよね、サトマメ」
 「うん、知ってるよ。だからいつも、ちゃんと待っていてあげてるじゃない」
 そう、私は外出中に気分が悪くなって、サトマメに2時間も待ってもらったことがある。その時以来、彼女にはわがまま放題になっている気がする。いつも悪いとは思うのだが、サトマメの懐の深さに、ついつい甘えてしまうのだ。
 「分かった、行くよ……。けど、本当に遅れるかも知れないよ」
 「OKOK、だいじょぶ。へーきだって。5時間だって、ふたりで待っていてあげるから。さすがに10時間は無理かもしれないけれど」
 電話の向こう側で、彼女が笑う。きっと、死ぬまでの友達だ。私が彼女を忘れていても、彼女は私を忘れずに、こうして電話をくれるのだ。
 「じゃあ、日曜日に」
 「日曜に会おうね」
 電話を切る。少し、涼しくなった気がした。喉が渇きを訴えている。
 「かーさん、お茶、冷やしてある?」
 起き上がって、ベッドから下りる。
 窓の外側に掛けた簾が、風で揺れている。何処かの軒下にかかった風鈴が、涼しげな音をたてている。
 閉ざされたドアを開くと、淀んだ大気が一息に流れ出た。
 私は部屋から出て、台所へと向かった。


 「まあ、日曜日が涼しいことを祈りましょうかね」
 母親は淡々と、私が外出することについてコメントした。
 「出掛けるわけか、この真夏に」
 兄の卯木(うつぎ)が呆れ顔で言う。まるで私の外出が社会の迷惑のような口ぶりだ。それも、てんぷらの海老のしっぽを、口の端からぴょこぴょこさせながらのセリフだ。
 「真夏だろうが何だろうが、約束は約束だ。休みが合う日に遊ぶ約束をするっていうのが普通だろ。永遠の学生にはわかんないだろうが、私の友人の多くは就職しているんだ。向こうの都合も考えてやらなきゃ遊びにも行けないんだ」
 「梅香も学生だろうが。しかも、学士も持っていない」
 これにはムッとした。
 「私はちゃんと就職を考えているんだ。死ぬまで象牙の塔の住人をやろうっつー考えの人間に、言われたかないね」
 「どう言おうと、今のお前と違って、俺は学士を持っている。加えて奇跡的に修士も持っている。ただのダブリじゃなく、しっかりとストレートで博士課程にいるんだ。就職なんかしなくってもいいんだよ。大学に残って、教授になる」
 高らかに宣言する。逆にいえば、博士課程(しかも法学)を終了した人間など、雇ってくれる会社は存在しないのだ。司法試験でも通ってりゃ話は別だが、彼に関しては試験を受けようという気すら毛頭なかった。
 「大学に残って、教授になれる保証は何処にある。せいぜい助教授止まりだろうが、この御時世じゃ。それに何が楽しくて教員になりたいんだ?」
 私は好物の茄子のてんぷらをつまみながら訊いた。
 「楽しい」
 兄貴は赤だしの味噌汁をずずっと啜りながら、言った。
 「まずは、対外的には地道に研究を重ね、それを学会で発表し認められる。そして学内では間違いだらけの学生によるレポートを、内心『バカめ』とせせら笑いながらバシバシ赤鉛筆で訂正しまくり、更に自分の学説を押し付け、ゆくゆくは国際法の第一人者として、世界に名を馳せるのだ。そんでもって国際紛争の折には、必ず俺の所に意見を求めるマスコミが国内外を問わず押し掛け、一気に時代の寵児となり、順調に教授に昇格、その地位を定年までキープする。加えて、定年後は名誉教授として安穏と暮らすっつーのが、俺のプランだ。我ながら惚れ惚れするね」
 何者だ、コイツ。
 「人生そんなに甘かないぞ、兄貴」
 親父達が可哀想じゃないか。こんだけ臑齧られ続けられちゃ。
 「現に私がそうじゃないか。就職口は無し、卒論は通らない。二十二にして、人生の辛酸を嘗め尽くした気分だ」
 私は茄子のヘタを皿の上に載っけた。
 「そりゃ、お前の精進が足りなかっただけだ、愚か者」
 ひどい言い種だ。
 「かーさんはどう思うんだよ、兄貴がこんだけプラプラしてるの」
 就職する気はないって、明言してんだぞ。
 「そうだねえ……」
 母親は暢気に言った。
 「自分の食い扶持ぐらい、ちゃんと稼いでくれりゃ、何も文句はないね」
 グサッとくる一言だ。私も兄貴も、何も言えなくなってしまった。
 「お梅も、早く卒業証書とやらを持ってきてくれると、嬉しいんだがね。私の年金も大した額じゃにゃあし、仁司さんも大変だなも」
 仁司さん、というのはとーさんである。
 今日も残業きゃあも、と祖母が続けた。しかし、その言葉とは裏腹に、家族のために身を粉にして働くのが当たり前、という気持ちが隠されていた。
 とーさんは婿である。よって、我が家は女性上位の社会が成立している(私には当て嵌まらないけど)。
 「梅香さん、味噌汁冷めてるわよ」
 あたたかいうちに食べてほしいんだよね、全く。作ったひとの気になってほしいもんだわ。等と、かーさんはぶつぶつ言っている。
 私は慌てて具沢山の味噌汁を掻き込んだ。その隙に私のおかずの皿から、海老のてんぷらを兄貴がかすめ取る。
 「わっ、兄貴はさっき自分の分食べてたじゃないかっ。私の分返せッ」
 「ずっと残ってたから、いらないんじゃないのか?」
 「ちがーうっ! 最後に食べようと、取って置いたんだっ」
 しっかり腹の中に納めてやがる。
 「悪いな、成長期なんだ」
 「……横にか?」
 二十五にも成ろうという男が、成長期なもんか。
 「その通り」
 あっさり認められてしまった。悔しい。
 「ああ、もう喧しいっ。余分に作っておいたのあげるから、静かにしなさいっ」
 かーさんが苛立って、私の皿にてんぷらを放り込む。
 総じて、田中家の食卓はこんなものなのである。

――後編へ続く――


2000.06.17 up


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