水しぶき (後)


 突然だが、日曜日である。
 私は9時に家を出て、約束の時間に間に合うよう、地下鉄・名城線の久屋大通り駅に降り立った。後は地上に上がって、テレビ塔まで行けばいいだけである。
 が、私の足取りは重い。
 「暑そうだよなー、ったく」
 冷房の効いた地下街に、永住したい気分だ。
 別に、友達に会うのが億劫なわけじゃなくて。
 ただ暑いのが嫌なだけだ。
 ノロノロと地上への階段を上る。
 外へ出ると、暑い湿気を帯びた大気と、それに似つかわしくない抜けるような青空が頭上に広がっていた。
 私の憂鬱に拍車がかかった。
 「あ、梅ちゃん、来た来た。結構早かったじゃんか」
 「ホント、もっと遅いと思ってたもんね」
 ようやくテレビ塔の下にたどり着くと、サトマメもトガちゃんも、先に着いていて、ベンチに腰掛けて缶ジュースを飲んでいた。
 「久し振りじゃんか、気合い入れて早くも来るさ」
 彼女等は顔を見合わせて、クスリと笑った。
 「じゃ、面子もそろったことだし、何処いこうか」
 「映画館」
 私は思わず口走ってしまった。
 「OK。多分そうだろうと思った」
 「でわ、矢場町まで歩きますか」
 ふたりともあっさりと私の意見を受け入れ、立ち上がる。
 3人で歩いて、映画館に行き、「んなコトあるわきゃねーだろ」っていうような、メロメロのラヴ・ストーリィの映画を観て、そこを出た。それから、適当な店に入って、食事しながらさっき観た映画についてツッコミをいれた。3人とも、恋物語に憧れないわけじゃないが、傍目に見るのにはちょっと照れるのだ。
 その後、デパートでウィンドウ・ショッピングをした。
 「ねえ、動物園いこうよ」
 トガちゃんが突然、言った。
 「動物園?」
 思わず聞き直す。
 「そ。東山動植物園。でも、キリンとかじゃなくって、植物園のほう」
 外は陽射しが強く、大地を照りつけている。
 「私はいいけど、梅ちゃんは?」
 サトマメが私に決定権を振る。彼女達は、絶対に無理強いはしない。だから、私が嫌だと言えば、本当にその通りにしてくれる。
 「……私も別に構わないよ」
 植物園の湿った空気を想像し、頭がクラクラしてきた。
 「梅ちゃん、顔と言ってることが一致してない」
 「そーそー、既に真っ青っスね」
 笑ったつもりだった。けれど、その顔がひきつっていたようだ。
 「“ハーブス”行ってから、鶴舞にしようか」
 「そーだね、ケーキ食べて、鶴舞公園にしよう。あそこ、図書館あるしね」
 「さあ、梅ちゃん行くよ」
 私が真っ白になっている間に、なんだか勝手に行き先が決定されたらしい。
 「何処に?」
 「ハーブス!」
 ゆっくり歩いて、ケーキ屋に入る。結構混んでて、10分ほど待った。
 「梅ちゃんはチョコレート・ケーキとカフェ・オ・レだよね」
 「そうそう、いつも同じ。……私はメロン・ケーキとアイス・コーヒー。サトマメはどうする?」
 「うーん、悩むなあ……。ま、今日はオーソドックスにショートケーキにアイス・ティーといきましょうか」
 暑さでグッタリしている私をしり目に、勝手にオーダーしていく。
 「――梅ちゃん、楽しい?」
 トガちゃんが突然訊いた。
 「……楽しいよ」
 死ぬほど暑いけど。
 けど、本当に楽しいのだ。ほかのこと、全部差し引いたって、お釣が来るくらい、すごく。
 「なら、よかった」
 彼女等は、互いに微笑みを交わした。
 「高校生だった頃、思い出すよね」
 窓の外には、公園が見える。クリスマス・イヴには、学校行事のひとつとして、この公園で賛美歌を歌った。思い出のたくさんある場所。
 あの頃から、私達はここによく来ていた。ここで待ち合わせをして、いろいろなところへ出掛けていた。秋に海を見に行った時も、ここで落ち合った。冬は電飾のきらめく公園で。春は白い木蓮の花の下で。
 ぴかぴかの思い出。いつまでも色褪せない、新しいままの記憶。
 一番大切なことはみんな、あの頃に見付けたから。だから、絶対に忘れない――忘れられない。
 「そうそう、初めて会った時のコトとか、クリスマス・キャロルだとか」
 「卒業式にも“ハレルヤ”だもんね。でも、もう歌うことないと思うと泣けてきた」
 「王の中の王、主の中の主、だよね」
 「結局、一番楽しかったよね、コーコーセーの頃って」
 「でも、こうやって昔に浸るっていうのはさ、わしらババアになってるってことじゃない?」
 「しょうがないじゃん、ハタチでてるんだし」
 「そーそー、高校卒業して、もう5年だよ」
 あたしらもババアになったさー、今の高校生見ると、ついていけないもん。
 窓の外の風景。元気に歩き回っているのは、中高生だろうか。選ばなければならない現実も、私達よりもずっと夢に近くて、未来は自分の前に開けていると信じられる頃。
 戻れるものなら、もう一度戻りたいと思う。それこそ叶わない夢だけど。
 「ケーキ、おいしいね」
 「うん、そーだね。でも、東京にもおいしい店、あるでしょう? 結構行ってんじゃないの? 梅ちゃん好きだからさあ」
 「あるにゃあるが、ここよか小さくって値段も高いうえ、うまくないよ」
 「そんなもんなの?」
 「梅ちゃん、名古屋が好きだからさ、何でもかんでも判官贔屓ってヤツじゃない?」
 「うんにゃ、何でも名古屋のものが一番うまい!」
 思わず、力説してしまった。
 「……一万歩譲って、梅ちゃんの言う通りってことにしておこうか、トガちゃん」
 「そーだね」
 「人の話を聞かんかい、ねーちゃんたちっ」
 「ハイハイ、聞いてますよ」
 「梅ちゃん、全然変わんないね」
 「そう簡単に人格変わったら異常だ」
 「まあ、そうだケド」
 「東京でも平気で名古屋弁を使うキミはエライ、と我々は常々思っているのだよ」
 「そうそう、その通りですね」
 「……お前等、いったい何言ってんだか、自分で分かってんのか?」
 コレで社会人が勤まるんだから、世も末だ(あ、既に世紀末なのか)。しかも片方は公僕だぞ、オイ。
 「……そろそろ出ようか」
 「うん、いいよ」
 本当は、もう少し長居がしたかったのだが、再び店が混み始めたので、出ることにした。
 「いい天気だねー」
 ぴかぴかの陽気で、頭痛がしてくる。
 「鶴舞まで行くのやだね。白川公園にしとこ」
 「そーだね。気が向いたら科学館でプラネタリウム見てさ」
 「美術館でもいいしね」
 「……歩くんだよね、やっぱり」
 「たーうぜん」
 「さ、梅ちゃんガンバロー」
 サトマメもトガちゃんも、元気だ。
 伏見までの道程、歩きながら話したことは、お互いの近況。だんだんグチっぽくなってきた。少しずつだけど、誰かに聞いてほしいことが、口から溢れてくるようになっていた。職場の人間には、決して言えないようなことを。
 「うわあ、スプリンクラー回ってるよ!」
 トガちゃんが嬉しそうに声をあげる。噴水の陰に、虹が立つのが見える。
 「トガちゃん、濡れるよ!」
 「別にいいじゃん、気持ちいいよ」
 芝生のあちこちで回っているスプリンクラーの水しぶきを、両手で受け止めて子供のように彼女ははしゃぐ。
 「相変わらず水が好きだね、トガちゃんは」
 「プール行けば良かったかもね」
 「そうだね……」
 「見てよ! こんなとこでも虹が見えるよ!」
 大声で私達を呼ぶ。
 私とサトマメは顔を見合わせた。濡れて困るような恰好はしていない。
 「――いこっか」
 「そうだね」
 スプリンクラーの水は冷たくて、とても気持ちが良かった。光の加減で虹が立つ。その虹の向こうには、燦然と輝く太陽。
 「どうしたの、梅ちゃん」
 「具合悪いの?」
 「そうじゃないケド……」
 急に座り込んだ私に、心配そうにふたりは訊いてくる。
 「このまま名古屋にいたいなぁって、思っちゃって……」
 ここにいると、自分自身であることが、はっきり認識出来る。流されないで生きていける気がする。
 大切なものは、全部ここにあるんだって、思える。
 「大学、どうすんのよ」
 「そうだよ、あと卒論だけなのに、もったいないよ」
 「やめちゃおうかな……なんてね」
 大学出てなくっても、立派に働いている人間は山ほどいる。大学出ていても、ウダツがあがらない人間だって、山ほどいる。
 「らしくない」
 サトマメがポツンと言った。
 「ホント、らしくない」
 トガちゃんも言う。
 「自分で決めたことは、何言われようが確実にやるのが、梅ちゃんなのに」
 「そうそう、他人の意見は無視、こうと決めたら命懸け。猪突猛進な田中梅香がそんなこと言ってちゃ、恐怖の大王だって降って来るのをやめちゃうよ」
 「大体、この佐藤真美子、後にも先にも、梅ちゃんぐらい気が強くていい加減で傍若無人な習性の、ほぼ勘だけで生きているとしか言い様のない人間に会ったこたないよ」
 「右に同じ。ばーい冨樫葉子」
 「……あんた達、私のコトそんなふうに思ってたのか?」
 「その通り」
 「どう思ってると思ってたワケ?」
 あっさりとふたりは認める。
 「じゃあ、私はアニマルな本能で生きている、イノシシかイツツユビナマケモノかってことかい、お嬢さん方?」
 「ナマケモノにイツツユビはいないよ、梅ちゃん」
 「そんなこたどーでもよろしい!」
 混乱しているのは、暑さの所為だろうか。思わず大声で叫んでいた。
 「この繊細かつナイーブな私をとっつかまえて、猪突猛進だの傍若無人だの言ってくれちゃって、深遠な悩みを聞いてくれるっつー優しさは微塵もないのか?」
 「シンエンな悩みー?」
 「わしらと同レベルだがね」
 同レベル。
 初めて、気付く。
 彼女達との何気ない会話の中に、悩みが隠されていたことに。
 愚痴に紛れてはいたけれど、それぞれに壁にぶつかっていることに。
 『入社したばっかでさあ、仕事なんか分かるわけないでしょう? それをろくに教えもしないで、接客態度がなっていないだとかノルマはこなせだとか……。勝手なんだよね。自分達もそうやってきたんだからって、見て仕事盗めって。私はそんなに器用じゃないから、出来っこないよ』
 『役所も似たようなもんだよ。書類の書き方だとか、ポンと見本を渡されておしまい。後は自力でやるしかない』
 『いずこも同じってヤツ?』
 楽しいのは、ほんの一部分。ほんの一時のこと。だけど、それがあるから頑張れるのかも知れない。
 「あれ、梅ちゃん黙っちゃったよ」
 溢れてくる嫌な思いも、口に出すだけで、心が軽くなる気がする。
 「――大声出したら、スッキリした」
 「て、なんの話ししてたんだっけ?」
 「動物的本能について、じゃなかった?」
 「ちがうだろっ!」
 「でも、忘れちゃうくらいだから、どうせしょうもないハナシでしょ」
 「うん、そうだね」
 「このゾウリムシっ、話を聞けいっ」
 少しずつ、心が楽になる。
 「そーなのよー、わしらの祖先はゾウリムシ。すべての生命は単細胞生物からはじまった、なんつってね」
 そうだよ、突き詰めて考えれば、全部単純なコトなんだよ。それこそ、ゾウリムシかアメーバくらい、単純な。
 頑張ってみようかな――。
 「見て、入道雲」
 「ホントだ。夕立ち、来そうだね」
 西の空に、大きな雲があった。久し振りに見る、入道雲。
 ピカピカの青空に、真っ白な雲が良く映える。世界で一番素敵なものは、こんな小さなことを見付けて、喜べる心なのかも知れない。
 「せっかく水撒いてるのに、もったいないね、スプリンクラー」
 「……そういう問題じゃないだろ?」
 どんな時でも、自分でいよう。――自分でいたい。
 絶対になくさないもの、なくしたくないもの。それはこんな気持ちかもしれない。
 夕立ちが上がったら、多分、スプリンクラーや噴水の陰に出来るのよりも、もっと大きな虹が見える。ずっと、忘れない。
 絶対に忘れない――。
 「さあてと、夕立ちが来る前に、晩御飯にしよう。やっぱ、こういう暑い日にゃ、タイ料理だよねー」
 「何言ってんのよ。インド料理のが絶対イイッ」
 「梅ちゃんは?」
 「……ガスパチョが食べたい」
 「ああっ、まとまらないっ!」
 「唐渡屋いけばぁ?」
 「それか“やぎや”だね、こりゃ」
 こんな時間から、居酒屋に行く気か、お前等。
 「さすがに夏だね、服がちゃんと乾いてる。今からお店に行ってもOKってカンジ?」
 「どーでもいいけど、私は鰻が食べたいぞー」
 「さっきのガスパチョはどうなったのよ?」
 「腹に入れば何でもいい」
 「まったく、もーいいかげんなんだから」
 「とにかく、いこーよ」
 「そうだねー」
 歩き出そう。
 今、立ち上がってそうするように。
 きっと、そう、瞬きをするくらいだよ。
 半年なんて、そう。
 気が付けば、あっという間。
 だって、立ち止まってなんかいられない。みんな進んでいるんだから。ひとり立ち竦んでなんていられない。みんな立ち向かっているんだから。
 思い出の中に、埋もれてなんていられない。
 前を向けば、選択肢は無限にある。
 自信を持って、歩き出そう。
 何度打ちのめされたっていい。叩き付けられたっていい。その度に立ち上がって、もう一度やり直せばいいだけのこと。
 頑張ってみよう。
 きっと、大丈夫。また歩き出せる。また嫌なことがあっても、ここにいる仲間のこと思い出せば、私、歯を喰いしばれると思う。
 「梅ちゃん、何してんの?」
 遅れがちの私に、トガちゃんが訊く。
 「……何でもない」
 青空が、眩しかっただけ。
 大嫌いな夏だけど、この空の色だけは好きになれそうだ。
 ずっと、歩いてゆこう。
 道はみんなと違うかも知れないし、交わるかも知れないけれど。もう、ひとりでも大丈夫。未来は見えないから面白いのだ。
 だけど――。
 「やっぱ、ドリア食べようよ」
 「もー、滅茶苦茶なんだから!」
 だけど、もう少し。
 もう少しだけ、このままで……。

(了)

one summer day of 90's.

2000.6.17 up


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