未知海 ――水面に映る――



――第九章―― 4


 「狭倭部はどうしたのじゃ! もう戻っても良い頃ではないか!」
 村長が叫んだ。苛立ちが隠し切れない声だった。
 村では、人手を集め、山火事の消火作業に当たっていた。桂の知らせで早めに発見出来たものの、思ったより火の回りが速く、折からの風に煽られ、作業は長引きそうであった。とはいえ、火を消さねば総べてを失うことになりかねない。
 「長! 水を掛ける程度では、火は消えませぬ!」
 「ええい、何をもたもたしておる! 火のついた枝を払い、木を切り倒すのじゃ! これ以上、火を広げてはならぬ! 火を消すのはその後じゃ!」 指示を下しながらも、村長は狭倭部のことが気が気でなかった。桂は消火作業に当たっているので、傍にはいない。自分ももう少し若ければともに作業に加わるのだが、そんな老骨に鞭打つような無茶は出来なかった。
 「火を消そうなどと思うな! 広げないようにするのじゃ!」
 どこにもやり様のない苛立ちに、村長は歯噛みした。その時、
 「隣の村のものじゃ……! 加勢致す!」
 わああーっ……という喚声とともに、隣村の者がなだれ込んできた。銘々が斧や鉈、それに水桶を持っている。
 「かたじけない。我が村の領域の不祥事に……」
 隣村の村長に、村長は礼を言った。
 「なんのなんの。困った時はお互い様じゃ。我が村が困った時に手を貸してくれるならば、礼などはいらぬぞ。……そら! さっさと火を消しにゆくのじゃ!」
 自分に比べていくらか年若い隣村の村長を頼もしく思い、村長は一礼すると、ふたたび村人の指示に廻った。いくらか緊張が薄らいだように思った。ひとが増えただけあって、作業がはかどりはじめ、目に見えて焔の勢いも衰えてきた。
 (狭倭部の奴、一体何をしているのか……)
 落ち着かなげに、村長は桂が消火作業に当たっているところへやってきた。桂は半分燃えてしまった木を切り倒し、水を掛けて火を完全に消しているところだった。水をかける度、ジュウッと音がして湯気が立ち、きな臭いにおいが辺りに充満した。
 「ここは順調に進んでおるようじゃのう」
 村長は言った。
 「ふたつ向こうが手間取っておる様子。一段落ついたら、何人か手伝いにまわってくれ」
 村人たちはうなずき、ふたたび作業にはいった。村長は桂に、狭倭部のことについて何か言いたかったのだが、結局なにも言わずに立ち去った。桂も村長に言いたいことがあったのだが、山火事を消し止めるほうが重大だったので、一言も口を開かなかった。やはり、気まずい思いで、ふたりは擦れ違った。村長が何歩も離れない、そんな頃だ。
 俄に、作業をしている者たちがざわめきだした。女の悲鳴さえ聞こえる。燃える山から、何か下りてきたらしい。村長は振り返り、そこに茫然自失して立ち尽くす桂の姿を見付け、その理由を知ろうと、彼の視線の先を追った。
 「狭倭部……」
 焦げた髪に引き裂かれた着物。煤け、傷だらけになった顔――身体。ひどい火傷すら負っている。しかし、その焼け焦げた腕には、しっかりと猪の子が抱かれていた。とてもじゃないが、いったい誰がこれを狭倭部だと分かるだろう。そう思われるほど、普段の彼とは掛け離れた格好だった。
 「うり坊……、よく我慢したな。ここまで来れば、もう安心だ……」
 ほっとした様子で、狭倭部は抱えている猪の子にそう言った。狭倭部は周りの様子など、まるで気にしていなかった。ただ、そのままゆっくりと歩き、火を感じないところまで来ると、ぐったりしたままの猪の子を地面に下ろし、自分も膝をついた。
 猪の子は、腰の骨が砕けていた。
 「すぐに良くなるからな……、うり坊。すぐに山へ帰れるから……」
 狭倭部は猪の子のからだを上下に二三度撫で、ほかに怪我がないか探した。
 「父さん……」
 桂はその狭倭部の姿を見てからはじめて、彼を呼んだ。その声に、狭倭部はちらりと目を上げたが、すぐに猪の子に視線を戻した。
 「すぐに……よくなる……」
 狭倭部は呟いた。その言葉を聞いて、村長はハッとした。
 「何をするんじゃ、狭倭部!」
 知らず、村長はありったけの声で叫んでいた。
 「いま『癒し』の術をつかったら、そなたは……!」
 ぽうっと、心なしか狭倭部のてのひらがぼんやりとした光を放ち、猪の子を包み込んだように感じた。――これが「癒し」の術なのだ。己のいのちを削って、他のいのちを助ける「術」。そして、これが狭倭部が此の世に生を享けた理由なのだ。
 いのちの重さを、人々に知らしめるために、狭倭部は生を享けたのだ。
 ――ある時、狭倭部は言った。「何故、私は生きているの?」
 村長は答えた。「それは、そなたにいのちが宿っているからじゃ。そして、生きとし生けるものは総べて、何かの為に生まれてきたのじゃ。何かをするためにのう。意味の無いいのちなど、此の世には存在しないのじゃ……」
 狭倭部は、如何なる生き物にでもいのちが存在することを、己のいのちを削ることによって皆に教えた。それがもし、両のてのひらに包まれてしまうような小さなものであったとしても、いのちには変わりないということを。いのちに貴賎などないということを教えたのだ。――そのいのちに、未来があるならば。
 フッと、てのひらから光が消えた。周りのざわめきが消え、固唾を飲んで猪の子を見守った。パチパチと、火の粉が飛ぶような音だけが、聞こえている。
 猪の子は、初めに頭をもたげた。それから、ゆっくりと、まるで生まれたばかりの鹿が懸命に立ち上がろうとするように、もたつきながら地面にあしを踏ん張った。うまく立ち上がると、あしの具合を確かめるようにのんびりとした感じで歩き始め、どこも悪くないことが分かると、一目散に走り去った。――木々の生い茂る山へと。
 狭倭部は満足そうに、猪の子の後ろ姿を見送った。そして、立ち上がり、桂をその瞳に映すと、彼に微笑みかけた。桂が鬼のような姿の中に見たその狭倭部の微笑は、神々しくすらあった。次の瞬間、狭倭部は膝が砕けたように倒れた。
 「父さん!」
 桂は狭倭部に駆け寄った。抱き起こした狭倭部は、意識がおぼろげで、名を呼び続ける桂に霞がかった焦点を合わせようと懸命だった。
 「……かつら……」
 狭倭部は、桂を認識すると、言った。
 「幸せに……なりな……さ……い……」
 愛しげに頬に触れた手が、ちからを失った。
 「父さん……?」
 桂は声を掛けた。腕のなかで、ぐったりとしている狭倭部に、どうしようもない不安を抱きながら、その返事を待った。返ってくるはずもない狭倭部の言葉を、待っていた。
 (眠っているだけなんだ。いまにきっと、目を開けて、いつもの優しい瞳で私を見てくれるんだ……)
 いまに、きっと……。
 桂は自分で自分に言い聞かせた。そんなことはない。けっしてそんなことはないのだ、と思い込ませ、狭倭部を見続けていた。折からの風は止み、火の勢いも衰えてきており、人々は消火の手を休めて、狭倭部の様子を見守っていた。
 その時である。何処からともなく、フッと鬼火がひとつ現れ、狭倭部の真上に静かに留まった。輝くような、赫い鬼火だ。
 「鬼火じゃ……」
 村人のひとりが呟いた。その声には、明らかに嫌悪の色がうかがえた。
 「鬼火じゃ、何かが起こる前触れじゃ」 
 「鬼火はひとのいのちを捕ると言うぞ」
 「鬼火じゃ、鬼火じゃ……」
 「ひとの魂を食らうそうな」
 「不吉な……! どこかへ追いやれ!」
 「やめろ!」
 不吉だと鬼火を罵りはじめた村人に、男が叫んだ。ぎょっとして、皆、その男を見た。いつもはひどく温厚なその男は、これほど激しいものを内に秘めていたのかと思うほど、強い瞳をしていた。水を打ったように静まり返った中、男は赫い鬼火を懐かしそうに見上げて言った。
 「あれは季散良なんだ……。十五年前に死んだ、私の妹の季散良なんだ……」
 季散良と同じ燃える瞳をしたその男の頬を、つうーっと涙が伝った。「季散良は……、狭倭部殿を迎えに来たのだな……」。
 肉親にのみ分かるつながりを、桂も感じていた。狭倭部を抱えたまま赫い鬼火を仰ぎ見て、胸に満ちあふれてくる切ないほどの「想い」を、体中で感じ取っていた。愛(かな)しい暖かさの赫い炎。――愛している。そう囁きが聞こえた。
 ――あなたを……あなた達を、こんなにも愛している……。
 鬼火は、大きく燃えはじめた。強く美しく、そして暖かな炎。何もかもを包み込むような、暖かな炎。
 (狭倭部殿……)
 季散良は狭倭部に呼び掛けた。ふわりと、狭倭部の身体から、魂が抜け出した。狭倭部は閉じていた目を開き、季散良の姿をはっきりと見た。十五年前と寸分違わず、彼女は穏やかに狭倭部に微笑みかけた。
 (これで逝ける……。これでそなたと共にゆける……)
 そっと手を伸べると、季散良にふれた。確かな感触を得て、狭倭部は季散良から伸ばされていた手をとり、互いの指を絡めた。傍にいる。あなたの傍に、いる。
 ――やっとたどり着いた、暖かな篝火に……。
 狭倭部は季散良を抱き締めた。ずっとずっと、求め続けていた。あなたを……、あなただけを。あなただけを想い続けて、十五年が過ぎ去った。あなたがいない久遠とも思えるその日々も、この瞬間、刹那に変わる。何もかもが、急に色鮮やかになる。確かなぬくもり――感触。ここに、確実にいるのだという、存在感。それだけで充分だ。それだけで……、あなたの存在だけで、もう、何もいらない。

 ――何もいらない……

 腕の中で、ふわりと季散良が笑った。今までに見たなかで、最も優しく、美しい笑みだった。そっと狭倭部の背中に回された腕に、ほんの少し、力を込める。強く抱き締めてしまうと、壊れてしまうのではないか、それともこれはただの夢にしか過ぎず、次の瞬間、目が覚めて消え去ってしまうのではないかと、訝しんでいるかのようだった。
 (ずっと、待っていたわ……。あなたにこうして、もう一度出逢う日を。それがあなたの死を意味するのだと分かっていても、やっぱり待ち焦がれていたの……。早くあなたの時が満ちてしまえばいいって、幾度思ったことか……。良くないことだって、分かっているのに、そう思ってしまうの。――あなたには十五年だったかも知れないけれど、私には千歳に感じたわ。……離れていることが、とても辛かったの。すぐに逢えると言ったのは私なのに、離れ離れになっていることが堪らなかった。傍に……いたかったの。ただ、それだけなの。あなたの傍にいて、ただ時が過ぎてゆけばいい。それでいいのよ。それだけで……。ほかのことは何一つ望まない。望みたくはないわ。譬え何もかもを失っても、あなたの傍にいるためだったなら、悲しむことは何もないの)
 そっと、肩に額を押し当てる。
 (――そうして、やっとあなたに逢えた。私の想いは、今、報われたわ……。愛してる。あなただけを心から愛してる……。あなたにとって私は、ただの篝火であったとしても、私の想いは変わらないわ……)
 季散良は、狭倭部の背にまわした腕に力を込めた。しっかりと狭倭部を抱き締める。全身の力で、夢ではない真実を抱き締める。――二度と失わないように、願いを込めて。
 ――あなた以外、何もいらない……。
 (季散良……。ずっとそなたを想っていたよ……)
 言葉が、上滑りしてしまうのを狭倭部は感じた。自分の想いを、言葉に言い尽くせないのを、もどかしく思った。どんな言葉にも表現出来ない想いを抱えて、狭倭部は喘いだ。季散良が傍にいるだけで充分なはずなのに、想いが胸にあふれて苦しかった。
 (本当なんだ。ずっとそなたを愛していた。いまも愛している。これから先も、ずっと……。何千年でも何万年でも、そなたを愛し続けるよ……)
 狭倭部は言葉をさがした。しかし、それ以外の言葉は、何一つ見付からなかった。それ以上、自分の心をうまく伝えられる言葉は、何処にもない気がした。そう、心の総てを表わし切ることは、不可能だということを、告げた後で思い知らされたのだ。やるせない気持ちのまま、ただ、抱き締める腕を強めた。季散良の顔が、泣き笑いに歪んだ。
 (嘘じゃないって、分かるわ……)
 頬を幾筋も涙が流れ落ちる。
 (あなたと桂を、ずっと見守っていたのですもの。本当だって、分かる……)
 言葉なんか、本当は必要じゃないのよ。何も言わなくてもいいの。あなたがいる――それだけで、すべてが完結するのだもの。
 季散良は狭倭部の背に回していた腕を解き、涙を拭った。
 (さあ、もう逝きましょう――。これからは、あなたの傍から何処にもゆかないわ。二度と離れない。あなたの篝火なんですもの、私は)
 狭倭部の腕のなかから、するりと摺り抜け、季散良は手を差し伸べた。篝火の炎は、静かに燃えていた。そう、これが狭倭部の求めていたものなのだ。――あなたがいれば、もう迷わない。あなたがいれば、それだけで何もいらない。狭倭部は伸べられた手を取ろうとして、ふと、自分たちを見つめる桂に気付いた。
 (どうしたの?)
 季散良は、桂を振り返った狭倭部に訊ねた。狭倭部はその問いに答えなかった。桂には狭倭部も季散良も見えていないはずなのに、彼は静かな瞳で、赫い鬼火を見上げていた。狭倭部の亡骸を抱えたまま、哀しみを湛えた瞳で、ただ、見つめていた。まるで、父母の姿がはっきりと見えているかのように、瞬きもせず。
 (――伝わっただろうか)
 狭倭部は言った。
 (伝わったわ……)
 狭倭部は季散良を見た。
 (伝わったわ、必ず。――安心して、狭倭部殿。桂はひとりじゃないし、あの子を大切に想ってくれる人だって、いるもの。大丈夫よ……)
 季散良ははにかんだように笑った。
 (あなたと私の子ですもの。きっと大丈夫……)
 季散良はもう一度、狭倭部に手を差し伸べた。細く白い指が、ゆるやかに曲げられている。(ゆきましょう。また何時か逢える、その日まで……)。
 狭倭部は微笑い返した。
 (そうだな……)
 そして手を伸ばし、季散良の手に自分の手を重ねた。握りあう手と手から、満ち足りた幸福が伝わる。
 ――もう、何処へもゆかない。
 パアッと、俄に鬼火は激しく燃え上がり、次の瞬間、跡形もなく消え去っていた。
 村人たちは一様に、茫然と鬼火のいた空を見つめていた。何も無くなってしまったのに、自分の見たものが信じられなかったように、じっと宙に目を凝らしていた。
 「……父さん?」
 桂はハッとして、抱えたままの狭倭部を見た。穏やかな、笑みさえ浮かんだ顔だった。――しかし、もう二度と、その瞳を開くことはないのだろう。何故なら、彼はすでに息絶えているのだから。更けゆく夜に、冷えた大気が彼の身体から徐々に熱を奪ってゆく。桂は、ひどい寒気がした。狭倭部は死んだのだ。いま、桂の腕のなかで。

 ――幸せにおなり……

 心に、その言葉が響いた。幸せに、なりなさい。ささやかで構わない。だから、幸せに……。狭倭部が穏やかに微笑う。桂は狭倭部が花のまだ固い蕾を開かせるのを、みたことを思い出した。風の悪戯で、開き損なった蕾が、みるみるうちに満開になる。多少歪ではあったが、それなりに美しい野の花だった。
 両手にいっぱい、花を摘もう。きれいな野の花を。傍らに寄り添うのは、あなたがいい。ひとりよりも、ふたりで幸せを分け合おう。摘んだ花で、冠を作ってあげるよ。祭りで舞姫がかぶるような、そんな冠を。春の陽射しのなか、野原で眠るような穏やかな時を、いつでもあなたにあげるから。傍にいるなら、あなたがいい。――本当はいつだって、誰だって、幸せになれる。
 桂は目頭に熱いものを感じ、俯いた。堪え切れなくなって、涙が零れ落ちる。ひと雫、冷たくなった狭倭部の上に涙が落ちた。煤けた着物に、涙が吸い込まれてゆく。その部分の色が変わった。
 「父さん……!」
 生まれて初めて、桂は大声で泣いた。自分の感情に素直に、周りのことなど気にも留めずに、ただ……泣いていた。

 ――幸せに、おなり――

2000.09.17 up


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