――第九章―― 3
十五年が過ぎようとしている今、あの時の季散良の瞳の輝きは、燃え尽きる前のものだったと、そう悟った。大きく燃え上がり、そして燃え尽きた季散良。思い出すのは、赫い炎。燃える瞳。彼女にふたたび巡り逢う、その時のためにも忘れない。黄泉の国へ下る時の、篝火をきっと忘れない。
忘れない……。
「桂、そなたは季散良のような強さを持ってほしい。篝火になれとは言いはしないが、正しいことを伝える者になってほしい。私は、わたしの生まれてきた意味を見付けた。季散良も自分の生まれてきた意味を見付け、それを全うして逝った。そなたも、どんな形のものでもいい、自分が何のために生まれてきたのかを見付けなさい」
陽が傾き始めている。ここに来たときに比べて、随分と冷えてきていた。
「私の話はこれだけだ。つまらない話を聞いてくれて、有り難う、桂」
桂は、どう言っていいのか、よく分からなかった。ただ、「いいえ」と、小さく応えただけだった。
「――風が出てきたな……。そろそろ戻ろう。親父殿がこうるさくなる前に、家に着いていなければな」
冷たい風が吹いていた。冷えてきたのは、そのせいもあるだろう。「主の池」の水面に張っていた氷は、陽射しでとうの昔に溶けており、強まりつつある風に波立っていた。
立ち上がり、歩き始めたふたりは、無言であったが、心の何処かで通じ合っているような気がして、気まずさは感じなかった。
耳もとで、ごうっと風が鳴った。
「父さん、どうかしたんですか?」
急に立ち止まった狭倭部に、桂は怪訝そうに訊ねた。
「今の風……、何処かおかしくはなかったか?」
「え……?」
「だから、煙り臭くはなかったか?」
桂は、風の残していった匂いを嗅いだ。
「そういえば……」
風の吹いてきた方を、振り返る。
「山が……、燃えている……」
煙りが山肌から上がっていた。山々にぶつかって、回った風が、偶然、狭倭部達のところへ煙りの匂いを運んだのだ。狭倭部達のいる丘のスグ隣の山だから、かえって気付かなかった。このところ良い天気が続いていたので、空気も枯れ葉も乾燥している。もう少し、風が強く吹けば、ひとたまりもない。
(あの場所では、村からは見つけられない)
火が出ているせいか、煙りの量は少ない。それに、村からは丁度、死角になる。村人が気付くまでには、もう、手遅れになりかねない状況だ。
「桂、そなたは急いで村へ戻り、このことを村長に伝えてくれ。火の回りが思ったより速い。今ならまだ間に合うかも知れない」
茫然としている桂に、狭倭部は言った。桂は声を掛けられて、ハッと我に返った。
「父さんはどうするんです……」
「私は走れない。だから、そなたひとりで行ってくれ。あれは我らの村の領域にある山だ。他の村には迷惑をかけられない。急いで、火が広がる前に」
若い桂の弱さだ。経験が不足しているせいで、いざという時にうろたえてしまう。
「私もなるべく早く丘をおりてゆくつもりだ。だから、急いで」
桂はうなずいた。その顔は、緊張で青ざめて見えた。
――急いで……。
狭倭部は祈るような気持ちで、走り去る桂の後ろ姿を目で追った。桂が見えなくなると、狭倭部は振り返り、キッと燃える山を睨んだ。
風が心なしか強まってきてるようで、燃え尽きた木々が倒れ始めている。ゴオーッという焔の燃え上がる音が、聞こえてきそうである。
そんな時である。キィーッと、耳を劈く、鋭い声がした――いや、聞こえたのではない。狭倭部の心に響いたのだ。
「猪……」
助けを求める声。しかもまだ子供のようだ。
「ゆかなければ……」
あの山へ、ゆかなければ。燃える、あの山へ――。
呟くまえに、狭倭部は駆け出していた。自分が生まれてきた意味を、全うするために――。
もつれる足を煩わしく思いつつ、丘を下る。隣の山へ、真直ぐに向かうつもりだった。急がなければ。いのちが消えてしまう前に。急がなければ、必ず後悔することになる。――狭倭部は走った。
耳に残る、あの悲鳴。何度もよろめき、つまづきかけてはその度に自嘲する。思うように足が動かないのも、狭倭部を苛立たせた。逸る気持ちを押さえ付け、一歩一歩しっかりと大地につけてゆく。――今は、転ぶほうが余程時間の無駄になる。
狭倭部は獣道を選んで、燃える山へ向かっていた。普通、獣道に誤って入ると危険だが、勘がはたらく狭倭部には畏れるに足らなかった。ただ、ひとの道と違い、険しく歩き辛いのが難点である。苔むしたところもあれば、下草の乾いたところもある。腐った木が横たわり、道を塞ぐところもざらだ。
(ひょっとすると、私は途轍もなく時間のかかる道を、選んでしまったのかも知れないな……)
いささか向こう見ずだったかも知れない自分の行動に、少々呆れてきたころである。
パッと視界が開け、森を抜けた。狭倭部は森を、ひとの道を通るよりだいぶ速く、抜けていた。燃える山が、目の前に見える。結局、狭倭部の選択は正しかったのだ。
(急がなければ)
助けを呼ぶ声は、近付いてきている。確かに、燃える山の中に、猪の子がいる。それも、ひどい怪我をしているようだ。山に住む動物や鳥は、火を恐れて逃げ出している。一斉にほかの山へ移り始める様子は、壮絶で壮快感さえあった。でも、あの声だけはどこにも動かない。動けないのだ。狭倭部は目を閉じた。そして、精神を声の主に集中させ、居場所を正確に突き止める。ここでしくじったら元も子もなくなってしまう。心に山の地図を映し出し、鳴き声に耳を傾ける。ゆっくりと隈無く猪の子を捜す。――見付けた。
狭倭部は目を開くと、燃える山に向かって走り出した。途中、何頭かの鹿が擦れ違いざまに振り向いた。鹿は、狭倭部を怯えた中に訝しみを交えた色の目で見、そのまま走り去った。狭倭部の奇妙な行動を確かめるより、自分の恐怖を取り除くほうが先なのだ。狭倭部は走った。自分の身体のことなどいといもせず、火の粉の降り懸かるまま、着物が枝に引き裂かれるまま、走り続けた。
――怪我をしていた。あの猪の子は怪我をしたうえ、倒れた木の下敷きになっているのだ。
「うわぁっ!」
狭倭部は燃えながら落下してくる枝を咄嗟に振り払い、腕に火傷を負った。皮膚の焦げる、嫌な臭いがした。すぐ、そこなのに……。狭倭部には千里も離れているように感じられた。
燃え盛る焔に行く手を阻まれ、周囲が真っ赤に染まった。熱さを通り越して、皮膚がちりちりと痛む。熱された大気に、呼吸が出来ない。
(もう……駄目か……)
霞む視界に、焔の舌がちらちらと動く。緋(あか)い焔。輝きはなく、ただ、総てを喰い尽くす貪欲な焔。音もなく、燃え尽きた木が崩れ去る。狭倭部の世界は、総ての音を失った。最早、猪の子の悲鳴すら聞こえない。一歩たりとも動くことが出来ず、狭倭部は観念して眼を閉じた。
何も見えない。何も聞こえない。ただ、灼熱地獄のような厳しい熱さが、狭倭部の身体を包み込んでいる。
堅く瞑った目は、焔のひかりをほとんど通さなかったので、狭倭部には夜の闇が訪れていた。そう、闇夜とまではいかなかったが、満月の夜の闇の暗さだ。――狭倭部は心の中で嘆いていた。周りがどれほど明るくとも、自分に訪れようとしている闇を照らす、篝火になりはしないのだということを。彼が求めているのは、赫い炎。旅人に道を教える、輝く赫い炎なのだ。
(狭倭部殿……)
遠のく意識の中、一筋のひかりが狭倭部に投げられた。輝く赫いひかり。
狭倭部はゆっくりと目を開いた。そこには、目を閉じる前に見ていた光景――焔の海――が広がっていた。だが、狭倭部はその他にも、信じられないようなものを見付けたのである。
――輝く赫い炎が、鬼火の如く静かに燃えていたのだ。
「季散良……」
涙で視界が歪んだ。炎の中に、ぼんやりとひとの形が浮かび上がる。はっきりと瞳にそれを映したいのに、熱で決して流れ落ちることのない涙が、邪魔をした。――ようやく、私にも時が満ちたのだ。どれほどこの時を待ったか……。
(約束どおり……、あなたを迎えに来たわ……)
季散良は、優しく言った。そうして、両手を拡げた。狭倭部は、熱さも苦しさも、何も感じなくなった。その腕に掴まれば、もうこれ以上、苦しむことはないのだ。そのことが分かっているのに、狭倭部はためらった。
「季散良、もう少し待ってくれ。私はまだ逝けない」
気が付くと、狭倭部は季散良の赫い炎のなかに取り込まれていた。不思議と熱さもまぶしさも感じない。それどころか、周りの緋い焔から、狭倭部を守っているかのようでさえあった。
(何故……? 時が来たのよ……)
季散良の声が、悲しげに響いた。
「私には、まだしなければならないことが残っているのだ。もう少し……。もうほんの少しだけ、待ってくれないか」
季散良が動いた。狭倭部の額に手をおそるおそる一瞬だけ触れると、その手を胸に抱き、にっこりと笑った。
(構わないわ……。あなたの気の済むようにして……)
言い残すと、季散良はそのまま掻き消えてしまった。
「……感謝する、季散良」
残されたのは、篝火の小さな炎。それはついと動くと、狭倭部をいざなった。――あの猪の子のいる場所へと。
狭倭部は走った。足が動く。今までのもどかしさが、微塵も残っていない。気味の悪い焔も、狭倭部を避けてゆくようだ。
「うり坊」
狭倭部がたどり着いた時には、猪の子は既に虫の息で、ぐったりと木の下敷きになったまま横たわっていた。しかし、幸いなことに、猪の子が下敷きになっていたのは燃えて落ちた木ではなく、その巻き添えを食らって倒れた木だったために、旨い具合にそれが焔からの防御壁の役割を果たしていた。狭倭部は木を退かし、猪の子を引きずり出すと、両手に抱え、立ち上がった。
「ゆこう、我らが村へ」
狭倭部は、炎がかすかに揺らぐのを見た。
2000.09.17 up