――第九章―― 2
季散良に出逢ったのがいつだったかだの、どうして季散良が死んでしまったかだの、狭倭部は憶えていない。ただ、季散良の声、表情、しぐさのひとつひとつが、狭倭部の心に刻み付けられていて、桂を見る度に思い出された。そして、季散良がもう、どこにもいないことを、思い知らされるのだ。
狭倭部に残されているのは、季散良と過ごした短いが満たされた日々の思い出と、忘れ形見となってしまった桂だけであった。村人も村長――つまりは狭倭部の父親――も、皆優しくしてくれる。皆、暖かく接してくれる。狭倭部が病弱で、何の役にも立たないとしても、詰ったり辛く当たったりなど、決してしなかった。譬え、狭倭部が村長の息子であることを差し引いたとしてもそうであっただろうし、狭倭部が「癒し」の力を持っていなかったとしても、やはり同じ態度をとっていただろう。だが、やはり季散良の存在にはかえがたく、何処かしら心は空虚であった。
「良く、似ている……」
共に生きていたかった。季散良となら、生きてゆける気がした。自分は何のために生まれてきたのか、何のために生きているのか、ようやく分かりかけてきた頃、季散良は逝ってしまった。望んだのは、共に生きてゆくこと。ただ、それだけだった。
それだけなのに……。
狭倭部は、泣いていた。逝ってしまったひとを悲しんでいるのではなく、残された寂しさを埋める術を知らず、嘆いているのだ。
「父さん……」
声を掛けた桂は、それ以上続ける言葉が見付からなかった。さめざめと泣き続ける狭倭部には、どんな言葉も宙に浮いてしまうだろう。心を掠めることすら、恐らく出来はしない。――「泣かないで」。そう続けたかったのに、その言葉は狭倭部には届かない。狭倭部の耳には、聞こえない。親子であるのに、狭倭部の慰めにすらならない存在の自分に対して、桂は腹を立てていた。近い存在であるはずなのに、向こうが透けて見えるほどの薄さの紗の布が、ふたりの間を遮っているかのようであった。互いが見えているのに、決して直に触れることは出来ないもどかしさを、桂は感じていた。
(父と子なのに……)
苦しい。息が詰まるほどに、狭倭部の哀しみが桂の心を締め付ける。胸の痛み、心の痛み。ひとりの人の死が、こんなにも重く、のしかかってくる。
奇妙な親子だった。哀しみだけが、ふたりの心を繋ぐ唯一の感情なのだ。「季散良」という、桂を産み落としはしたが、その記憶には残ることの出来なかった女性が、十五年が過ぎた今でも、ふたりを繋ぐ唯一のものだった。桂が受け継いだ、狭倭部と季散良の「血」。いつもそれは哀しみにまみれていた。
「――季散良は……」
狭倭部はひとしきり泣いて気が済むと、語り始めた。
「季散良は、気立てのいい娘だった。ころころと良く笑う、周りにいる者がホッとするような、そんな娘だった」
並外れて美しいというわけではなかったが、内から輝くようなところを持っており、それが人々の心を捕えて離さなかった。感情に素直に行動し、明るく快活であった。狭倭部は、季散良のそんなところに惹かれたのだと、そう言った。
「何故そのような話を?」
訝しげな桂に、狭倭部は答えた。
「桂に知っていてほしいのだ。そなたの母がどのような人であったのかを」
確かに季散良がここにいたのだという証が、狭倭部はほしかった。桂に季散良の残した――いや、季散良と狭倭部が残すべき「証」を刻んでおきたかったのだ。それがもし、桂にとって、迷惑以外の何ものでもないとしても。
「村の者は、私が役立たずでも、常に暖かく接してくれた。でも、その村人の態度に、何処かしら私は、いつも疎外感を持っていた。弱い私をいたわる半面、私に触れないように、無意識のうちにでも避けていたのだ」
――「皆と違う」ということを、常に思い知らされていたあの頃、小さな箱の中に押し込められている気がした。外は見えているのに、触れることは決して出来なかった。手を伸ばしても届くはずもなく、近付こうとすれば、世界は逆に遠のいてゆく。しかし、季散良は違った。季散良は、狭倭部がどうしても壊すことの出来なかった壁を、いともたやすく打ち砕いてくれたのだ。
「初めて出逢った時は、芋を植えるのに忙しい時期だった。土をおこして、親芋を植えるのだ。そんな時に、私はふらふらとその辺りをうろついていた。――私は『役立たず』だからね。何もしない私を見かけた季散良は、私に芋の入った籠を放るように渡して『ふらついていないで、さっさと畑に運んでくれない?』と、言ったんだ」
たった、それだけのことであった。だがねその一言がなければ、今の狭倭部はなかったであろう。季散良に言われるまま、籠を運んだその後、初めて畑に下りて、村人に教わりながら、芋を植えた。不器用ながら何とか芋を植え終え、泥だらけになった狭倭部を見て、村人は心の底から笑った。――狭倭部の感じていた疎外感は、その瞬間、消え失せていたのだった。
燃えるような瞳。
狭倭部が季散良を思い出すとき、必ずそんな瞳を彼女はしていた。譬えるなら、真夏の太陽。譬えるなら、燃え盛る焔。炎の赫(あか)。この赫が季散良の色である。季散良は、内に炎を持っていた。輝く赫い炎を。
その焔で、狭倭部のわだかまりの総べてを、焼き付くしたのだ。
「あなたのような人には、私みたいのがついていなければ駄目ね」
意を決して、妻になって欲しいと告げた時、季散良はひとつ大きく息を吐くと、そう答えた。その時も、燃える瞳をしていた。強い意志の象徴。赫い炎の輝き。
しかし、彼女はただの跳ねっ返りではなかった。確かに、狭倭部は季散良のそんなところに初めは惹かれたのだが、そうではないことに気付いていった。炎にも、いろいろあるのだ。熾きの燻るような炎もあれば、祈祷の際に焚く、天にも届くほどの火柱も炎だ。季散良の炎は、夜の篝火の炎だった。狭倭部を安全な場所へと導き、その冷えた身体を暖めてくれた。篝火は、激しく燃え上がればそれだけ遠くまで光が届く。道を失った旅人も、その光をたどって生き延びることが出来よう。
狭倭部はその瞬間、思い出していた。季散良が最後にいった言葉を。
――あれは、春だった。生まれた赤子に村長が名を付け、それを床に臥せっていた季散良に教えにいった、その時のことだ。
「桂、というのね」
そう言って、季散良はくすりと笑った。
「桂の花が咲いた日に生まれたから、だなんて、素敵だわ。――何だか女の子みたいだけれど」
すやすやと隣で眠る桂に、季散良は目をやった。
「そうだろう。私もそう思ったので親父殿に言ったんだ『生まれたのは男の子だから、もっと違う名を付けてほしい』ってね。そうしたら、親父殿はどう答えたと思う?」
季散良は首を振った。「分からないわ」。
「親父殿の言いそうなことだよ。『桂が紅(くれない)の花を咲かせるのは、男の木じゃ。それに、桂の木は狂いが少ない良い木じゃ。何も悪いことはないではないか』とさ」
そう言われてみればその通りで、狭倭部は引き下がるほかなかった。
村長の声色を真似てみせた狭倭部に、季散良は穏やかに笑い掛けた。その瞳には、光が宿っていたが、いつもの強さは感じられなかった。
「良い名だわ……」
季散良は目を閉じた。狭倭部から季散良の瞳は、見えなくなった。
「狭倭部殿に、私の名の意味は、話していなかったわね……」
狭倭部は言った。「秋に生まれた末娘だからだろう」。
「違うわよ。その意味もあるけれどね」
季散良は閉じていた目を、開いた。狭倭部が魅せられた、激しく燃える瞳だった。
「季散良っていうのは、『季(とき)がきたら散ってゆくのが良い』と、そう読むのよ。時の流れるままに自由に生きて、その時が来たらいさぎよく散る秋の木の葉のように死んでゆくのが良い。そういう意味なの」
狭倭部は不安になった。季散良の目が、急に遠くを見つめた。
「私にも、時が来たのだわ……」
瞳。燃える炎の瞳。篝火の炎は、何処を照らしているのか。
「そんな目をしないで」
悲しそうに見つめる狭倭部に気付いた季散良は、再び狭倭部に視線を戻すと言った。
「そんな目をしないで」
悲しそうに見つめる狭倭部に気付いた季散良は、再び視線を彼に戻すと言った。
「赤子の桂よりも、私はあなたの方が心配よ。とても、、心配なの。あなたはいつも寂しそうで、悲しい瞳をしていたわ。丁度、今のあなたみたいな目よ。……最初は、その瞳から悲しみを取り除いてあげたいって、思ったの。だって、あなたの瞳は、とても綺麗なんですもの。それから、初めてあなたの笑った顔を見て、あなたに強く惹かれたわ。むいつも笑っていてほしいって、……私に向かって笑いかけていてほしいって、そう望んだの。妻になってほしいと言われた時、嬉しかった……。本当に嬉しかったの。でも、私は素直じゃなかったから、あんなふうにしか応える言葉を思い付かなくて……。あなたが、好きよ。これは本当。今だから、心から言えるの。あなたのことが一番好き。傍にいられるのだとしたら、あなたの他には何もいらないわ」
季散良は、狭倭部から目を逸らしはしなかった。
「何も、いらない……」
もう一度、季散良は言った。そうして、狭倭部の瞳をしっかりと捕えた。季散良の言う通り、狭倭部は澄んだ綺麗な瞳を持っていた。
「私は……」
堪え切れず、狭倭部は両手で顔を覆った。
「私は何も出来ないのか? このまま、そなたが死んでゆくのを黙って見ていろというのか? 私は……」
篝火を、失くしてしまう。また、暗闇にひとり残されてしまう。
「何もしなくていいの。これは病でも怪我でもないから、『癒し』の術は使えない。でも、それでいいのよ。私は、桂を……あなたの子を産むために生まれてきたのだから。あなたが何のために生まれてきたのか、それを伝える子を産むために、生まれてきたのよ。――私の役目は、もう終わったわ……」
季散良は手を伸べて、そっと狭倭部の頬に触れた。
「泣かないで。悲しむことはないわ。またすぐに逢えるのですもの。……私はほんの少し、早く逝くだけ。それだけなのよ」
「逝かないでくれ」
短く、叩き付けるように狭倭部は言った。両手をはずし、涙で濡れた顔を季散良にさらす。
「私を置いて逝かないでくれ……! 私はそなたなしでは生きてゆけない。生まれた意味など、どうでもいい。私は、そなたと生きてゆきたいのだ。頼む……、置いて……逝かないでくれ……」
迷ってしまう。道に、迷ってしまう。
「そなたなしでなど……、どうやって生きたら良いのだ。どうやって道を見つければ良いのだ……。夜道で手をひいてくれるそなたなしで、どうすれば……」
やっと見付けた篝火。消えないでいて、どうか。消えないでいて。そこに、たどりつくまで。
「……夜道を照らすのは、篝火だけじゃないわ。灯りがなければ、北天の星を捜せばいいのよ。きっと、見付かる。あなたなら、見つけられる」
決して動くことをしない、北天の星。それを目指して進めば、きっと大丈夫。
「さあ、もう泣かないで。あなたは生きなければならないわ。私達が別れ別れになるのは、ほんのわずかの間。その間にあなたは、あなたが生まれてきた意味を、この子に伝えなければならないのよ」
狭倭部はうなずいた。言葉を発することは出来なかった。季散良を困らせることしか、言えそうになかったから。だが、ふたりを引き離すのは神にも不可能だろう。そのことが分かったのだ。必ずふたりは巡り逢う。
――巡り逢う、ふたたび。
「……ねえ、約束をしましょう。私は、あなたに時が来たら、迎えに来るわ。夜道を照らす篝火になってあげる。だから、あなたも約束して。その時が来るまで精一杯、生きるって。あなたは、ひとりじゃないもの。桂がいるのよ」
季散良は言った。
「約束するよ」
狭倭部は、ようやくそれだけ言った。胸が詰まって、何も言えそうになかったのだ。
その狭倭部の言葉を聞いて、季散良は安心したように目を閉じた。
「何だか、とても疲れたから、少し眠ることにするわ。――大丈夫。心配しないで。今日はまだ、逝かないから……。ただ……。眠るだけよ……」
言いながら、季散良は既に眠りに落ちていた。とても穏やかな寝顔を見ても、狭倭部は胸の中がさわいで仕方がなかった。
季散良が死んだのは、それから二日経った明け方のことだ。結局、あの時に交わした会話が最後だった。死に顔は、何かを成し終えたという満ち足りた笑顔であった。
――炎は、如何なるものであっても、燃え尽きる前に大きく、激しく輝きを増すものなのだ。
狭倭部は、篝火を失くしてしまった……。
2000.09.16