――第九章―― 1
いつのことだったか――そう、あれは確か、寒い真冬の出来事だった。空風が吹き、奇妙に落ち着かない朝を迎えた。
「今日も冷えるのう……」
村長は戸を開け、夜のうちに一面に降りた霜を見て、つぶやいた。吐く息が白い。
「まあ、晴れるだろうて、昼には暖かくなるじゃろう」
陽のひかりが射し、東の空が白み始めていた。ピンと張り詰めた大気。空には雲ひとつなく、冷え込みはかなり厳しいものがあった。だんだんと明るくなっていく山々。夜明けの薄紫に染まっている。
「親父殿。お早う御座います」
村長は振り返った。背の高い息子が、そこには立っていた。
「狭倭部(さわべ)、具合は良いのか? もう少し、ゆっくりと眠っておれば良いのに」
クスリと、狭倭部は笑った。その顔色はいつになく良く、村長を安心させた。
「御覧の通り、今日は具合が良いので、陽が昇ったら少し表へ出てみようかと思いましてね。……これは素晴らしい」
狭倭部は村長の隣に立つと日の出を眺めた。早起きの鳥が何羽か飛び交う光景を、嬉しそうに見つめる狭倭部に、村長は目を細めた。幾つになっても、やはり親は親で、子は子なのだ。そうでなくとも、狭倭部は病弱で、いつ死んでもおかしくないほど、床に臥していることが多かった。それに――。少しでも目を離すと、動物を集めては何やら話し込んで、時には自分のいのちの無駄遣いを始める始末だった。いのちの無駄遣い――狭倭部は身体が弱い代わりに、自分のいのちを削って、ひとに与える能力を持っていたのだ。人や動物の怪我などを治す度に激しく衰弱しては、幾度死線を彷徨したのか、数え切れなかった。狭倭部は、自分が今にも消えそうないのちを持つために、ひとの生を思い遣ることを、自然と身に付けていた。しかし、皮肉なことに、それが返って仇となっていた。
「ところで、桂はまだ起きて来ないようじゃのう。折角、狭倭部の具合が良いというのに。どれ、儂が起こしにゆくかの」
村長が室へ桂を起こしにゆこうとすると、狭倭部は慌てて止めた。
「朝寝くらい、良いではありませぬか。連日、ああも親父殿にしごかれているのです。たまにはゆっくり寝かせておいてやりましょう」
村長は眉をひそめた。
「……狭倭部。そなた、儂を鬼か何かのように思うておるな」
狭倭部は、いつの間にか追い抜いてしまった父親を、見下ろして言った。
「滅相もない。親父殿が桂に厳しく物事を教えていることは、それはそれで良いことだと思っています。……しかし、私には桂が少しばかり、不憫に思えて仕方がないのです」
自分が病弱なばかりに、息子の桂が責任の重い立場へ追いやられてゆくのが、とても辛かった。幸い、健康に生まれてきた桂。しかし、老い先短く、後継者のことに頭を悩ませていた村長が、桂を自分が死んだ後の村長にと選んだ時から、桂の平凡な生活は崩れ去ったのだ。
平凡な生活――子供らしく木に登ったり、転げ回ったり、夏には川で泳ぎ、冬には雪を投げ合う。狭倭部はそんな生活を、送ったことがなかった。身体が弱く、寒い時には家の表にすら出してもらえない。夏でも、風邪をひいてはいけないと、水に触れることすら許されなかった。そうして、気が付くと、いつもひとりぼっちだった。他の子供達は狭倭部と違って、走っても咳き込むこともない。ある程度の年齢になると、みな畑仕事などの農作業を手伝うようになったが、それすら狭倭部には出来なかった。狭倭部は生まれた時から、一種の疎外感に苛まれ続けていたのだ。鳥や動物、植物と語らっても、慰めになりこそすれ、その寂しさを基本的に紛らすことにはつながらなかったし、何よりも、自分が生まれてきたということの意味が、狭倭部には全く見当がつかなかった。歳月を経て、妻に巡り逢い、桂が生まれるまでは。
桂が狭倭部の総てだった。だから狭倭部は、桂には幸せになってほしかった。桂には、自分が感じていたような疎外感は味わせたくなかった。しかし……、狭倭部には村長の決定に逆らうことは、到底できなかったのである。
「狭倭部の言わんとすることは、分からんでもない。だがのう、儂の寿命がどれだけ残っているかを考える度に、慌ててしまうのじゃ。何としてでも、桂を早く一人前にせねばとな。好きで厳しくしているわけではないのじゃ」
村長の気持ちが分かるぶんだけ、余計に辛さが増す。
「分かっていますよ、親父殿」
狭倭部は言った。村長は、ふうと溜め息をひとつ吐くと、その狭倭部の様子を見つつ、呟くように言った。
「本当に分かっているのだか……。のう、狭倭部。そなたは桂に少し甘いと思うぞ。あれは次の村長じゃ。厳しくして、辛さを覚えねば……」
「親父殿、本当に分かっていますよ。ただ……」
狭倭部は桂の室の方へ目をやった。
「私は、桂に優しさを教えたいのです。厳しさがあるからこそ、その中で美しい輝きを見せる、優しさを知ってほしいのです。それに、私の可愛い息子ですから。村長になったとしてもそうでないにしても、死ぬまで桂は私のたったひとりの息子ですから。これだけは、決して変わらないものですから、私が親父殿の息子であるということと同じで。だから、私は親父殿が厳しくしてくれる分だけ、桂に優しくしてやりたいと思います。それくらいしか、私に出来ることはありませんからね」
言い終えると、狭倭部は再び村長に視線を戻し、微笑んだ。逝ってしまった妻の、儚げな面差し残る桂。狭倭部が心に受けた傷を、その優しさで包み込んでくれた、初めての女性だった。桂にその優しさを伝えることが、彼女の生きていた証に――いや、狭倭部が生まれてきたことの意味につながるのだ。そう狭倭部は思っていた。
「……狭倭部、そなた桂に良い印象を持たせようとしておるな。言っておくがのう、儂にとっても桂は可愛い孫じゃ。可愛いからこそ、立派に育ってほしいのじゃ」
村長は不服そうに狭倭部に告げると、踵を返し、また戸の外を眺めた。昇り行く太陽が、山々の間から顔を覗かせたところであった。
「親父殿、可愛いついでに、今日一日、桂を私に預けて頂けませんか?」
村長は振り向いた。そこには、父親の目をした男が立っていた。
「宜しくお願い致します」
重ねて言う狭倭部に、村長は駄目だとも言えなかった。祖父と父親では、到底勝ち目はないのだ。村長は長く息を吐くと、目を閉じて頷いた。
昼になると、狭倭部は桂を連れて丘へ登った。本当はもっと早くゆきたかったのだが、狭倭部の具合が良いと聞いて、何人かの村人が、牛の様子がおかしいの馬がものを食べないの、挙げ句の果てには夫婦喧嘩の仲裁まで、何とかならないものかと立て続けにやってきたので、顔を出しているとこの時間になってしまったのだ。
森へ入った途端、狭倭部の周りには鹿や猪などの動物や鳥が集まってきたので、傍にいた桂は内心驚いていた。動物は、狭倭部の持つ雰囲気を感じ取っているようで、決して威嚇をしたりはしなかった。
「桂」
狭倭部は「主の池」の近くに腰を下ろすと、桂を呼んだ。桂は振り返ると、促されるまま、狭倭部の隣に座った。
「年が明けると、幾つになる?」
ポツリと、狭倭部が訊いた。風もなく、冬とは思えないほどの穏やかな陽気だった。もちろん、冷えて張り詰めたような空気を除いてだが。周りに戯れる鳥や動物の息遣いまでもが、聞こえてきそうな中、狭倭部の声はどうしてだか、ひどく頼り無げだった。
「十六になります」
桂は答えた。その後ろで、チチチ……と声をたてつつ、鳥が飛び去った。
「十六……か」
狭倭部は空を見上げた。
「そうか、もう十五年も過ぎたのか……」
季散良(きさら)が逝ってから――。その言葉を狭倭部は飲み込んだ。何を言っても、逝ってしまった者は、二度と還らない。虚しさがつのるばかりである。狭倭部は感情を鎮めるために、かぶりを軽く振った。
「桂は、友人はいるのか? 例えば、今日あった出来事を話すような、そんな友人は」
傍に寄ってくる鳥を、嬉しそうに目を細めて見る桂に、狭倭部は言った。実の親子のはずなのに、狭倭部は驚くほど、桂のことを知らなかった。
「ひとりだけですけれど、友人はいます」
桂は狭倭部を見た。優しい目をしていた。
「嫌なことも、嬉しいことも、何もかも話せる気がする、そんな人を友人というのなら、やはりひとりだけです。私には、遊び友達というものはいませんから」
寂しい日々を、過ごしているのかと思った。誰にも話をすることすらなく、ただ、ひたすらに村長になるための心構えを教え込まれているだけかと思っていた。――狭倭部はほっとした。そして、微笑んだ。
安堵が滲み出てくるような、そんな微笑みだった。
「寂しくはないか。いつも村長になることだけを考えさせられて」
たまには、遊びたいだろうに。まだ、本当に子供なのだから。
「いいえ。人を統べるということの大切さが、よく分かりますから。寂しいとは思いません。ひとりで寂しいと思った時がないとは、言い切れませんが」
言いながら、桂は何だか不思議な気分だった。父親なのに、他人と話しているような気がするのは、何故だろう。それでいて、傍にいるだけで安心できるのは、守られていると思えるのは、何故だろう。
「……そうか。桂は大人なんだな」
狭倭部が言った。年齢からしても充分大人だというのに、まだ幼いという感覚が抜け切っていなかったのは、自分だけだというのを知った。狭倭部は少しだけ、寂しかった。
「そんなことありません。私はまだまだ未熟だと、よく分かっています。もっともっと大人になります。今に、きっと」
桂は、こんなふうに狭倭部と話をするのが、初めてだということに気付いた。父親なのに、初めて出逢った人のような気がするのは、そのせいだろう。
それから、ふたり黙って腰を下ろしたまま、空を見上げていた。
風がなく、穏やかな昼下がり。親子はならんで腰を下ろし、お互いが少しだけ近付いた気がして、暖かかった。冬だというのに、とても暖かだった。
「……桂は、母親似だな」
ふと、狭倭部はいった。桂の横顔が一瞬、季散良と重なった。
「祖父(おおじ)殿には、父親似だと言われますが」
桂は目を狭倭部に向け、応える。
「それは背が高いところだけだろう。性格は私に近いかも知れないが、顔や話し方は、季散良に良く似ている」
巡り逢って、時間にすればほんのわずかしか、一緒にいられなかった季散良。それだけに鮮烈に記憶に残っている。
(狭倭部殿……)
季散良の呼ぶ声が、今も耳に残る。その声の感じがそのまま、桂に受け継がれている。――血の不思議を狭倭部は噛み締めていた。桂の面差し、桂のしぐさひとつにしても、総べて季散良に重なる。
2000.09.16 up