――第八章――
次の朝、桂は目を覚まさなかった。
どんなに名を呼んでも、永遠にその目は開くことはなかった。
そう、もう二度と……、そして、永久に――。
「佐那様ーっ!」
慌てて足をもたつかせながら、村人のひとりが主の池に来た。
「何かあったの?」
「急いで……、急いで村へお戻り下さい。さあ、早く」
村人は、そう言って佐那の腕を引っ張った。
「一体どうしたのよ、そんなに慌てて……」
「桂様が……」
ピチャン……と、鯉が水を叩いた。
村人の声が消え、唇の動きでその急を佐那に告げる。
「え……?」
佐那は自分の耳を疑い、聞き返した。
「桂様は……」
村人は、ゆっくりと大きく息を吐いた。
パシャパシャと鯉達は、動揺しているかのように水の少なくなった池を泳ぎ回る。
「桂様は、お亡くなりになりました」
時が一瞬、色を失った。
「さあ、急いで下さい。もう巫嫗様も村長も皆、集まっておられます」
急いで――と、佐那の腕を掴んで、村人は駆け出した。
桂が死んだ――。
手を引かれ、丘を下りながら、佐那は信じられない気持ちでいっぱいだった。
嘘よ。きっと、嘘だわ。だって、昨日、聞いたのですもの。桂は元気にしているって……。佐那は思った。嘘に違いない、と。
鳥の声も、木の葉のさざめきも聞こえない夏。
鳥寄せで、桂はよく鳥を集めては、餌をやったり、歌声に耳を澄ませたりしていた。
そのせいか、「山の神」の祠の辺りには、鳥が多く住んでいる。
鯉に餌をやっている時に、鳥の歌声を聴くのも、しばしばであった。
――嘘よ……。
「村長。佐那様をお連れ致しました」
村人は、村長の家へ着くと、桂の室の前へ佐那を上がらせた。
「そうか……。お入り」
佐那は、おずおずと室の内へ入って行った。
「佐那……。此処へ――」
薄暗い室の中心に、桂が横たわっている。その周りを囲むように、村長、佐那の祖母である巫嫗、そして、幾人かの村人が座っていた。
「婆様……」
佐那は巫嫗の傍に座り、そっとその手をとり、握った。
巫嫗は、佐那の髪を愛おしむかのように、撫でた。
「佐那……。桂は随分やつれたじゃろう……。ずっと、自分の分の水や食べ物を、幼い子供達や弱い者に与えて、何も口にしなかったのじゃ……。私等が桂のいのちを縮めてしまったのじゃ……」
巫嫗は、佐那に桂が死んだことを、婉曲に伝えた。
「儂は……」
村長は、愕然とした気持ちを振り切れぬままの声で、言う。
「儂は、桂に人のことを常に思うよう、教えてきた。いつも、自分が苦しい時、他人はその倍も苦しい思いをしているのだと、そう教えてきた。自分の感情を殺すことばかり、教えてきたのだ……。桂は……、桂は儂が殺した様なものじゃ……」
殺した様なものじゃ――。佐那は、ハッとした。信じたくなかったことが、現実のこととして、信じなければならなくなってしまったのだ。
村長の心の叫びが、後悔が、胸を打つ。大切な者を、自分の手で亡くしてしまったのだという苦しみ。そして、譬えようもない哀しみ――。それらが、一生の重荷になる。
啜り泣く者、項垂れる者……。村人それぞれが、桂の死を悼んでいる。
「嘘……よ……」
佐那は呟いた。声が震えている。
「そうよ、嘘なんだわ……。だって……、だって、聞いたのですもの、桂は元気だって。昨日のことよ……。元気だって、昨日聞いたのよ、私……。死んだなんて、嘘
! 嘘よ、そうよ、嘘なんだわ! そんな訳ないもの……。眠っているだけなのよ!」
わあっ、と声を上げて、佐那は泣いた。
「桂……、桂……」
名を呼びながら、桂の遺骸に取り縋り、激しく泣いた。
――悪い夢なんだ……――
泣いて泣いて……、夢から早く覚めることを願った。
「私が悪かったのです。……あの時、佐那様に桂様のことを伝えていれば、そんな事にはならなかったのです」
人々の嘆きの声が聞こえる。
たったひとりの人の死が、これほど多くの者を悲しませるのだ。
死――。不思議な感じ。ポッカリと心に穴が開いてしまったような、そんな空虚な感じ。
冷たい桂の身体に、しっかりと取り縋っていた両手を、佐那は緩めた。そして、ゆっくりと泣き濡れた顔を上げ、その自分の手を見る。
(夢じゃない)
突然、佐那は思った。
(夢なんかじゃない……。悪い夢なんかじゃない!!)
涙が、佐那の頬から乾いてゆく。
「生きなければ……」
思いがけず、佐那の口から零れた言葉は、皆を現実に引き戻した。
「桂は何のために死んだの? ひとりでもいい、ひとりでも多くのいのちが生き延びなければ、桂の死が無駄になってしまう……」
桂の遺骸から手を外し、佐那はその掌を目の高さまで上げ、見つめた。
(冷たい――――)
はっきりと佐那は、桂の死を確認した。
掌に残る死の冷たさ。そして、人々の嘆き――。
哀しみか、嘆きか、自分の心を支配しているものが何なのか、佐那には分からなかった。ただ、桂の身体の異様な冷たさに、愛しい者の死を、思い知らされただけであった。
有る時、桂はくすんだ緑色の小さな鳥を、指に止まらせていた。
「桂、それは何という名の鳥?」
佐那は訊いた。
「鶯だよ、佐那」
「鶯?」
不思議そうに訊き返す佐那に、桂は笑いながら答える。
「そう、鶯だよ」
「春になると、綺麗な声で鳴く、あの鶯?」
佐那は信じられない、というように、もう一度訊ねた。
「意外かい? あの美しい鳴き声とはぬ、掛け離れた姿だろう。見窄らしいという者も、あるかも知れない。でも、この鳥はまぎれもなく、鶯なんだよ。見掛けだけで判断してはいけない。これは人と同じだ。そのものの本質は、見ただけでは分からないんだ」
桂は空を見上げた。まるで、翼を失った鳥が、空に焦がれるように……。
「その鶯、どうしたの?」
佐那は、そんな桂を眩しそうに見つめながら、言った。
「『主の池』の近くで、怪我をしていたのを見付けたんだ。何処ぞの悪人に、石を投げ付けられたらしい」
「そう……、酷い事をする人がいるのね」
ふうっと、佐那は息を吐いた。
「怪我が治ったから、森へ還してやろうと思って、池まで来たのはいいが、仲間がいなければ、淋しいだろうな」
桂はそう言うと、指を唇に当てて、ピーッと鳴らした。
バサッ、バサッと羽音を立てて、鳥がたくさん佐那と桂のいる丘へと、集まって来る。
「ほら、もう淋しくはないぞ。……さあ、行け!」
スッと鶯を乗せた手を、天に向かい高く上げた。
鶯の体が、フワリと宙に浮かぶ。そして、大きく羽ばたいて飛んでゆく……。
「……何処へゆくのかしら、あの鶯……。何処までも、何処までも飛んでゆくわ……。まるで。天上を目指しているみたいに……」
佐那は、鶯の飛び去った方を見ながら言った。
「天上……か。そうかも知れないな……。空に憧れるものは、きっと、天上を目指すのだろうな――。私も、そのひとりかも知れない……」
佐那は、鶯の行方を目で追う、桂の端正な横顔を見た。
遠くを見る桂は、自分の傍にいないような、何処かへ消えてしまいそうな気がして、急に不安になり、佐那は桂の腕をぎゅっと掴んだ。
「佐那、どうかしたのか?」
桂は、空に向けていた目を、佐那に向けた。
「だって……、遠くに行ってしまいそうだったんだもの……。鶯と一緒に……」
心配そうな顔をした佐那に、桂は笑って見せた。
「何処にもいかないよ、私は。佐那を置いて、行くわけがないだろう?」
桂はそう言って、佐那を抱きしめた。
「佐那がいてくれるなら、私はそれでいい。佐那が傍にいて、笑っていてくれるなら、それだけで充分なんだよ。……確かに私は、天上に憧れている。もしも、次に生まれ変われるとしたら、私は鳥になりたいと思っていた。でも――でも、また、佐那に出逢えるのなら、何度でも人の子として生まれて来たい……」
そして、幾度も幾度も……、出逢う度にあなたを愛したい――。
桂の温もりが、佐那に伝わってくる。胸の鼓動が、激しくなる。
そう、それは至福の時――――。
――もう一度、佐那に出逢えるのなら……――
黄泉の国とは、天上にあるのだろうか。それとも、地下深く、暗くひっそりとした処にあるのだろうか。
逝ってしまった人は、還って来ない。
ならば――。
ああ、願わくは、彼の黄泉の国は、天上に在らん事を――。
せめて天に憧れる者の、夢を叶えさせたまえ……。
2000.09.16 up