――第七章――
日照りは更に何日も続いた。
桂は、何一つ口にしようとしなくなってから、佐那に会っていない。佐那が、主の池にずっといて、村の方へ戻って来なかったこともあるが、やつれた自分の姿を見せたくはなかったからだ。
「桂様……! 大変です! もう、溜めておいた水が、一雫も残っておりませぬ!」
慌てた様子で室に駆け込んで来た村人が、桂にそう告げた。
「水が……」
霞のかかった頭で、桂は考えた。横になっていた身体を起こす。
「はい、井戸も川も、とうに水はありませぬ。残っているのは、主の池のみです」
心配そうに桂を見つめながらも、続ける。
「主の池、か」
極力、主の池から水を汲むことは避けたかった。でも、死んでしまっては仕方が無い。背に腹は代えられぬ。
「主の池から、『山の神』の許しを得てから、少しずつ水を汲み、弱っている者から与えるのだ。元気な者には悪いが、多少我慢をしてもらってくれ」
「ならば、一番は桂様ですね」
「いや、私はいい」
桂は言った。
「しかし、此れ程弱っておられるではありませぬか。皆、心配しております。佐那様も、このことを知れば、きっと――」
「要らぬのだ。私は、大丈夫だ。見掛けほど弱ってはいない。――佐那には心配をかけたくはない。決して言うな」
桂の言葉の強さに、村人は引き下がるほかなかった。
「わかりました。佐那様には、何も話しませぬ」
村人は一礼をすると、室を出て行った。
決して言うな――。
村人の心は揺れていた。桂が衰弱しきっていることぐらい、すぐに分かる。嘘が吐き通せるか、自信が無い。
「水を……汲みに行くか……」
村人は呟いた。
池の鯉は、池の主。
主の守る水は、涸れぬ。
そう、決して涸れはせぬ――。
主の守る水も、涸れる時はある。今はその時なのだ。
ぼんやりと桂は思った。
そして、その水を主とともに守ろうとしている佐那を思った。
――佐……那……
「佐那様」
ビクッとして、佐那が振り返る。
「驚いた……。どうしたの? 池まで来るなんて、大変だったでしょう?」
佐那は、弱っているであろうと、村人を気遣って言った。
「いえ……。佐那様こそ、大丈夫なのですか? 村の方へは、あまり戻っておられない御様子で……」
「大丈夫よ。ここは幾分過ごしやすいのよ。それに、皆、同じように苦しんでいるのですもの。辛くはないわ」
佐那は、木陰に入って、腰を下ろした。
「水を汲みに来たのでしょう? もう、水は無くなってしまったのね……」
村人が手桶を持っているのを見て、佐那は言った。
「はい……。でも、まだ持ちますよ。雨もきっと、もうすぐ降って来ます」
村人は、「山の神」の祠に許しを乞うてから、池の水を汲み上げた。
「村の皆は……、元気かしら」
佐那は訊いた。
「ええ、まあ何とか元気にやっていますよ」
村人は答えた。
「あの……、桂は……どうしているかしら」
村人の動きが、一瞬、止まった。
「もう随分会っていないの。無茶はしていないかしら」
佐那の問いかけに、本当のことを告げるべきか、、村人は躊躇した。
「元気……で、いらっしゃいますよ」
心配はかけたくないと、桂に口止めされたのを思い出し、吃りながら答える。
「そう……。良かった……」
ほっとした様子で優しく微笑む佐那に、罪悪感を感じながら、その半面で、桂の佐那に対する想いの深さを垣間見た気がして、これで良かったのだと、自分に思い込ませた。
「では、私は村へと戻りますので、失礼致します」
「気をつけてね」
佐那に見送られ、村人は村へと戻って行った。
――これで……良かったのだ、きっと……――
桂は褥に横たわり、陽射しの強い外を見つめていた。
会いたいという気持ちは強くなるばかりで、しかし、あの笑顔を壊す勇気も、権利もなかった。
悲しい顔はさせない。
桂はそう心に決めていた。
「苦し……い……」
空腹感もなければ、喉の渇きも失せている。ただ息苦しく、咳き込みながら褥に突っ伏すよりほかになかった。
そして、ふと意識が戻った時に思い出すのは、常に佐那の笑顔であった。
――桂……――
佐那が遠くで名を呼ぶ、そんな気がした。
でも、守れない。もう、その笑顔を守ることは出来ない。
何故か、桂はそう思った。
会いたい。会って、もう一度あの笑顔を見たい。
しかし――。
桂は悲しい気持ちになった。
出るはずのない涙が、桂の両の瞼からあふれだした。
佐那には、辛い思いはさせたくなかったのに……。
霞む視界に、佐那が現れ、悲しい瞳をして遠ざかって行く――そんな錯覚を起こし、その方向へ手を伸ばした。
――佐……那……――
不思議な響きがするその名を、心の中で叫んだと同時に、桂の意識が遠のき、全身の力が抜け、パタリと伸べていた手が床で音を立てた。
佐那――。
ほっそりした横顔。艶やかで真直ぐな黒髪と、吸い込まれるような美しさを持つ黒い瞳。白い肌に、赤い唇。いのちの有るものに対して、どんなものにでも絶やすことがない、穏やかな笑顔。小柄で細身だが、決してぎすぎすした印象を与えない容姿。
初めて彼女に逢ったのは、いつのことだったろう。
桂は思った。
小さな村の中でのこと、はっきりと覚えているはずもなく、気が付くと、彼女が寄り添っていたのだ。
でも、子供の頃の思い出が全くない、というわけではない。――そうだ、初めて彼女の名を聞いたのは、五つの頃だ。「山の神」に名を告げにゆくとき、ひとつ年下の佐那が、巫嫗に付いて来ていた。山の麓で巫嫗と別れるのを嫌がって、たしなめられていた。
『佐那、来年はそなたの番じゃ。来年は婆と共に行こうぞ』
そう言われても佐那は泣き出し、一緒に行くはずだった村長が佐那のお守りをすることになった。
涙を流して、巫嫗を呼び続ける佐那が、記憶に残っている。
桂と同様、佐那も母親の顔を知らない。桂の母も佐那の母も、産後の肥立ちが悪く、若くして亡くなったのだという。さらに、佐那の父親は、妻が佐那を身籠っていることさえ知らずに、沢に落ちて死んだ。父親を知っているだけ、桂の方が幸せかも知れないが、ふたりは両親ではなく、祖父母の手によって育てられたのである。
初めて言葉を交わしたのは、それから数年たってからだった。
桂は祖父である村長から、人を束ねるために必要な教育を受けていた。本来なら、村長の息子である桂の父が次の村長になるべきなのであろうが、彼は病弱であったせいで村長には不適当な人材だったのだ。とにかく、桂は長になるべくして生まれた少年であり、それに応えられる資質を持っていたために、およそ、その年頃の子供とは掛け離れた生活を強いられていた。それを不憫に思った桂の父親は、指笛で鳥を集めることを桂に教えた。父親に教えてもらった「鳥寄せ」は、同じ年齢の子供と遊ぶことのない桂にとって、唯一の楽しみになった。
その日も、桂は暇な時間が出来たので、丘へ登った。「主の池」の近くで指笛を鳴らし、鳥を集める。集まってきた鳥を見ていると、燕が混じっていた。
「春が来たんだ……」
桂は呟いた。もう燕が戻ってくる季節になったのかと、そう思った時である。
ザッと、何かの気配に驚いて何十何百という鳥が、一斉に飛び立った。
「きゃあっ!」
小さな悲鳴。
桂が振り返ると、小さな女の子が足許に何かの餌らしきものを籠ごとひっくり返し、地面に座り込んでいる。その黒い瞳は、驚きに見開かれ、頬は紅潮していた。
「ごめんなさい……、ごめんなさい……」
少女は桂を見ると、急にその瞳を涙でうるませ、小さな声で必死に謝りはじめた。
桂は、すこし戸惑ったが、少女に近付いてゆき、そっと手を差し伸べた。
「だいじょうぶ?」
桂はぎこちなく笑った。子供達から隔離されて生活している桂は、こういう時どうすればいいのか、見当もつかなかった。同年代の少女に対して、どんなふうに接すればいいのか、まったく分からなかったために、途方に暮れてしまったのである。
桂の言葉に、少女は目を上げた。
はじめて目と目が合った。
世界中の夜と闇を、すべて集めたような瞳――。
「……ごめんなさい」
少女はもう一度、そう桂に言って涙ぐんだ。
「何をあやまっているの?」
どうすればいいのだろう。どうすれば、泣きやんでくれるのだろう。――桂は必死に考えていた。それなのに、その濡れた瞳から目を逸らすことができなかった。
「だって、鳥とお話していたのでしょう? それなのに、私のせいで鳥が逃げてしまったのだもの、だから、……だから、ごめんなさい」
少女は目を伏せた。
「あやまることはないよ。話していたわけじゃないし……」
「でも、私だって、主とお話しているときに誰かに邪魔されたらいやだもの。きっと、ほんとうは嫌だって思ってる」
池で何匹か鯉が跳ねた。大きく飛沫があがる。
「主……?」
桂は、足許に散らばっているものを見た。そして、少女が「主の池」の鯉に餌をやりにきたのを知った。
ここ数年前から、度々姿を見せるようになった「主」。巫嫗の孫娘が世話をしているという話だった。主はめったに姿を現わさなかったが、彼女が丘へ登るようになって、その度に水面へと浮かび上がってくるという。「主」はよほど彼女が気に入ったのだろう、と村人たちは語り合った。主がひとの姿を見て現れたのは、桂の父親以来、二十年ぶりのことだったそうだ。
桂は座り込んで、ひっくり返っている籠を手に取ると、鯉の餌をひとつずつ拾いはじめた。粉を水で練ったものを適当な大きさにまとめて、乾燥させたものであった。
「これでいいかな?」
桂は大方拾い終わると、少女に籠を渡した。
「あ……、ありがとう」
少女はおずおずと受け取った。
桂は少しほっとした。涙をとめてくれただけで、桂にとっては充分だった。
「鳥は……」
桂は言った。
「鳥は、呼べばまた来てくれる。きっとまた歌ってくれる。きっと……。だから気にすることはないよ。――鯉に餌をやりに来たのだろう? なら、早く餌をやらなければ、鯉が腹を空かせているよ」
少女はこっくりと頷いた。そして頬の涙をぬぐって、立ち上がると、軽く着物に付いた土を払い、池へ向かった。
「主……」
少女は籠の餌をひと掴み、パッと池へ投げた。
幾匹もの鯉が浮き上がってきては、餌を食べている。そして、その中には勿論、あの大鯉がいた。「池の主」と呼ばれる、あの大鯉が。
桂は初めて「主」を見た。
「主」は一点の曇りもない黄金色の鯉だった。しかし、その色は少し黒っぽく、派手な感じは与えなかった。美しい、美しい大鯉。それが「主」なのだ。
少女は餌をすべて投げ終わると、桂を振り返り、花がほころぶように笑った。
そんな笑顔を見るのも、桂は初めてだった。
「私、佐那。婆様は巫女をしているの」
池のほとりに並んで腰を下ろし、鯉の泳ぎ回る様を見ながら、少女は言った。
「あなたは、何というの?」
佐那は訊いた。
「桂。春になると、紅の花をつけるあの桂の樹が、初めて花を咲かせた日に生まれたから、桂というんだ。祖父殿(おおじどの)がつけてくれた」
桂は答えた。不思議と、穏やかな気分だった。少しずつ近付いてくる春の気配。やわらかく大地を暖める陽射しのせいかもしれなかった。
でも、本当は佐那が傍にいるからだった。
暖かい。
まるで、春の陽射しのように。夜の篝火のように、彼女は桂の淋しい心を暖めた。佐那は、桂にとって初めての「友達」だったのだ。
だが、佐那にとっても、それは同じことだった。彼女の場合、祖母の仕事を手伝うために、あまり子供たちと遊ぶ機会を得ることがなかった。
淋しい心が重なり合って、互いを認め合ったのだ。
いつのことだろう。
その気持ちが「想い」に変わったのは。
他愛のないことを語り合った。ふたりでいると、心が休まった。
どんなに辛いことがあっても、乗り越えられた。
――好きだった。
本当に、佐那のことが大好きだった。
傍にいてほしかった。いや、傍にいたかった。
佐那が傍にいて微笑んでくれるなら、桂はそれ以上のものは必要なかった。何も望まなかった。望むことすら、考えなかった。
だから、守りたいのだ。
自分のいのちを抛ってでも、佐那だけは守りたいのだ。
(愛している……)
何よりも、誰よりも愛しく思っている。
だから、分かってほしい……。自分がいなくなっても、強く生きていってほしい。――悲しまないで。きっと、守るから……。
あなたがいつも幸せに微笑んでいられるように、この世界を両腕に抱き留めて、必ず守るから。だから……。
守るから。
悲しみから、きっとあなたを守るから。
この両腕は決して強くはないけれど、
いつもあなたが微笑んでいられるように、
いつもあなたが幸せでいられるように、
包み込んであげるから。
だから……。
誰ひとり死んで欲しくない。心の底からそう思うが、それは佐那のためだった。佐那を傷付けないためだった。
桂は苦笑した。佐那のこととなると、どこまでも利己的になれる自分に対して、感動もしていた。そして、今更ながら佐那を想った。
佐那を守ると言っておきながら、自分がいつか必ず最悪の形で佐那を悲しませてしまうであろうということに、罪悪感を持ちながら。
――ごめん……な……
主の池の静けさ。森の木々。そして、木漏れ日に遊ぶ子供達。
優しい思い出の中、いつも微笑みを絶やさなかった佐那……。
好きになったのは、その笑顔だったのだろうか。彼女の持つ暖かさだったのだろうか。それとも、その両方だったのだろうか。
春、夏、秋、冬……。それぞれの日々の中に住む想いは、穏やかで掛け替えの無いものだった。
今はそれらも、すべて夢だったような気がする。
夢と現実の狭間で――。
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