――第六章――
桂は水脈を探していた。
(「主の池」の水が涸れないのは、地下の水脈が、普通よりも深い所にあるからだろう。ならば、「主の池」のほかにも、日照りに左右されないような水脈があるはずだ)
主の池は、丘の上にある。それなら、同じ水脈が山のふもとにも流れているはずである。同じ水脈でも「主の池」以外のところなら、きっと山の神も水を汲むのを見逃してくれるだろう。
東へ西へ……。桂は水脈を探した。「主の池」を中心に弧を描くように探し続けた。きっと見付かるという希望を胸に、桂は炎天下を歩き回った。
(熱い……)
熱くて焼けそうだ。
大地が灼かれ、その熱で風景が歪んでいる。陽炎のたつその向こう側に、森が現れる。緑の木々。しかし、木漏れ日は鋭く地面を突き刺す。
振り返ると、ひび割れた大地が広がっている。乾上がった池、川。逃げ遅れた魚が、ひからびた藻と一緒に熱された岩にこびり着いている。
弱々しい緑。草だけではなく、木々にも日照りの被害は広がっている。
(雨さえ降れば……)
桂は空を見上げた。翼の折れた鳥が空を焦がれるような、そんないつもの瞳ではなく、ひたすらに雨の気配をさぐる、ひとの子の目で、眩みそうにまぶしい光を全身に受けて、空を見上げた。
真っ青な、どこまでも広い空。雲ひとつ、……虹のかけらひとつ見付からない。その青空の頂点を極めるように、燦然と輝く太陽。
ふうっと、桂は溜め息を吐いた。そして、あきらめたように大地を見つめ、ふたたび歩き出そうとした途端、クラッと眩暈を感じ、膝をついた。暑さでかなり参っているようだ。ただでさえ、ここのところ飲まず喰わずださいうのに、歩き回っている所為だろう。
「大丈夫だ……。まだ、平気だ……」
桂は自分で自分自身に言い聞かせた。厚着をしなければ、陽射しが強過ぎて皮膚がひきつってしまう。汗すら乾燥した空気にすぐひいてゆき、脱水症状を起こす。桂は苦笑した。今はその陽射しを防備する着物の重みにすら、自分は苦痛を感じている――。
暑さによる頭痛など、もう苦痛ではなくなった。頭痛がするのが当たり前になっていた。日陰では少し暑さがやわらぐが、風は吹いていても熱を持っているために、涼しさは微塵も感じられなかった。そのくせ、夜になると急に冷えはじめ、昼との温度差がかなりあるために、体調を崩す者も多かった。
「おやおや、これは大分弱っておられる御様子じゃが、大丈夫かの?」
嗄れてはいるが、やけに呑気な声をかけられ、桂は目線を上げた。
「大丈夫かの?」
もう一度その老人は言った。
歳の頃は、七十……八十。かなりの高齢のようだ。顎髭も長い眉毛も真っ白である。小柄で、長身の桂の肩ほどの身長もない。そのうえ、色黒で痩せこけていた。竹で編んだ笠をかぶり、織の粗い麻の焦茶色の着物を一枚、素肌にだらしなく着込んでいたが、汚らしさは全くなかった。帯は細めの荒縄だった。荒縄には、小さな巾着がひとつと瓢箪がふたつ、ぶらさがっていた。
「これはこれは、声も出せぬとは、酷い弱りようじゃの。――どれ、儂が木陰まで背負っていって差し上げようかの」
言うなり、老人はひょいと喘ぐ桂を肩に担ぎ上げ、木陰のほうへ歩き始めた。
「ご、御老体、大丈夫です。ひとりで歩けます故」
「なんのなんの、そなたなど軽いものよ。儂は大岩だとて担げるでの」
ほっほっほっ……と、高らかに笑いながら、老人はしゃんしゃんと桂を担いだまま木陰へと歩いてゆく。老人とは思えない怪力である。老人でなくとも、これほど痩せぎすなら桂に肩を貸すこともできそうにはないのに。
桂は初めのうちこそていこうしたものの、老人が下ろしてくれそうもないので、じっと担がれたままになっていた。そして、そうしているほうが気分がよいことに気付いた。この暑さのなか、こんな譬えは奇妙かもしれないが、春、大地に寝そべって、日溜まりの匂いをかぐのに似ていた。この老人は、なつかしい草木の芽生える大地の匂いがした。
木陰にたどりつくと、老人はそっと桂を木に持たせかけるように座らせた。
「御迷惑をおかけしました」
ほっとして、桂は老人に礼を言った。やはり陰に入ると少しは涼しい。
「なんのなんの、あたりまえのことだでの、礼なぞいらんぞい」
ほっほっほっ……と、また老人は笑った。それから、腰にぶら下がっている瓢箪をひとつ、取りはずすと桂の前に差し出した。
「中身は水だでの」
訝しげに見る桂に、老人は言った。そして、ポンと瓢箪の栓を抜いた。
「飲みなされ。ここのところ何も飲みも食べもしておらぬのではないかの? 身体をこわしてしまっては、この暑さは乗り切れぬぞい」
桂は首を横に振り、老人に瓢箪を押し戻した。
「御老体、誠に有り難いとはおもいますが、これは御老体のもの。この大旱はいつまで続くか判らないもの故、いただけません」
日向では、陽炎が揺らめく。昨日までは遠くで微かに鳴いていた蝉の声が、今日はもう聞こえない。
揺らぐのは陽炎だけではない。桂の意識にもかすみがかかり、ともすればゆらいで無意識のなかに引きずり込まれそうになる。
「誠にその通りだの。だがの、この水は儂のものだぞい。その儂がそなたに『飲みなされ』と申したのだから、そなたは飲めばよいのだ。遠慮などいらぬぞい」
桂は老人を見た。この暑さの中、汗ひとつかいていない。
老人はもう一度、桂にみずをすすめた。桂はそれを受け取った。チャポンと、瓢箪のなかで水がはねる音がした。かなりの水が瓢箪には入っているようだ。
そっと、桂は瓢箪をかたむけて、水を飲んだ。ひとくち、ふたくち飲んで、驚くほど今までのけだるさが消えていくのが分かった。
「――有り難うございました。だいぶん楽になりました」
桂は老人に瓢箪を返しながら言った。
「なんのなんの」
老人はただでさえ皺だらけの顔を、さらに皺だらけにして笑った。
「儂は此れ此の通り、しゃんしゃんとしておるのに、そなたにほんの少しの水を分けただけでこれほどまでに礼をいわれるなぞ、思わなんだぞい」
老人はそう言うと、「よっこらせ」と桂のとなりに座った。
「で、そなた、このような大旱のさなか、何をしておるのかの? 何もこのように暑いなか歩き回らずとも、じっとしておればよいのではないのかの?」
桂は、大きく深呼吸をした。話したら、ひとを巻き込むことになりそうだったので、話さなかったが、この老人には話してもよいのではないか、とそう桂は思った。炎天下、あてもなく歩き回るのは自分だけでいい、そう思ってここまでやってきたが、ひょっとすると、この老人は、何か知っているのではないか、そんな考えが桂の頭をよぎったのである。なぜなら、彼の老人は新鮮な水を持っているのだから。
「水脈を……、探しているのです」
桂は言った。言いながら、この老人が水脈のことを知らなくても、別にいいと考えている自分を見付けて、少々驚いていた。この老人はひどく飄々としていて、何をしゃべってもそのまま聞き流してくれるように思えたのであった。
「日照りが続きで、水がなくなってしまいそうなので、こうして夜昼構わず水脈を探して歩き回っているのです」
ほほう……と、老人は白い顎髭に手をやった。
「しかし、そこまで酷い被害がでておるのかの? 水脈を探し歩かねばならぬほどに」
桂はうなずいた。この老人、どうやらこのあたりの住人ではないらしい。日照りの程度をまったくといっていいほど、知らないようである。桂の住む村を中心に、かなりの広範囲で雨がまったく降らない状況が続いて、はや一月になる。加えて、今年は空梅雨で、多くの池の水嵩も元々、随分と下がっていたのだ。
老人は、ゆっくりとひび割れた地面を見た。
「……これほどまでとは思わなんだの……」
そうつぶやくと、皺にうずもれた糸のように細い目を伏せた。
失礼ですが、御老体はこのあたりに住んでおられるわけではないのでしょう。この村……、いえ、この郷では御見掛けしたことが、一度もありませんが」
ぶしつけだとは思いながら、桂は訊ねた。
「いやいや、儂はここに長きに渡って住んでおる。そうだの……、何年になるか、自分でもよう判らぬのだがの、儂はここの者だぞい。……ただ、ちょいとばかり、旅に出ていたのでの、この郷のことは判らなんだ」
老人は、うつむいたまま答えた。それまでとはあきらかに違う、落胆の色がうかがえる声だった。その声を聞いて、桂は訊ねたことを後悔した。老人が、心の底からこの郷を愛していることが伝わってきたからだ。己れが生まれ、育ち、そして死んでゆくであろう土地にふりかかってきた不幸を喜ぶものが、いったい何処にいるのであろうか。年若い桂でさえ思うことを、彼の何倍も生きているこの老人が思わないはずはないのだ。干上がった池や沼、そして、川。ひび割れた大地に、何を思うのであろうか。草は枯れ、木々の葉もしおれている。水のあった処には、魚などの生物の屍がこびり着いていて、風が吹くとパサパサと砂とともに飛ばされていく。
「――水脈、かの?」
突然、老人はつぶやいた。桂は顔を上げ、老人を見た。
「訊いてもよろしいかの? そなた、誰の為に水脈を探しておるのかの?」
誰の為――。そう言われて、桂は考えた。自分のため、ではない。自分だけのためでは、決してないと言い切れるが、そう言われると答えに窮してしまう。ひょっとすると、自己満足のために水脈を探しているのではないか――。桂は不安になった。
「皆のためです」
桂は、とりあえずそう答えた。答えて、不安はますます大きくなった。
「村人の……、皆のためです」
いままで、誰ひとりとして桂にそのような問いかけをした者はなかった。自分自身、考えることすらしなかったことに気付いた。皆のためとはいっても、本当に皆はそれを望んでいるのだろうか。ただ、自分が皆に押し付けているのではないだろうか。
私は――間違っている?
「良いことだの」
老人は満足そうに目を細めた。そうすると、まったく皺のなかに目が隠れてしまって見えなくなった。
「ひとのことを思う――、ひとのいのちを大切に思うことは、良いことだの。そなた、立派にひとの上に立つ者になるだろうの」
「私は――」
桂は老人が言い終えるまえに、口をひらいた。
「私は、独りよがりではないでしょうか。私が皆のためにと思ってしたことでも、かえって皆の重荷になっているのではないでしょうか」
心が縄で縛られてしまったようだ。身動きがとれなくて、苦しくてしょうがない。逃れようと、もがけばもがくほど逆にがんじからめになってしまう。
「何故そう思う?」
老人は首をかしげた。そうして、桂をじっと見た。
「そなた、己れの為に動いているのではなかろう。己れの利益のためだけに動いているのではなかろう。ひとの為に、こうして大旱のさなか、水脈を求めて彷徨っておるのだろう。――それだけで充分だの。きっと皆、判ってくれるだろうの」
「でも、それが重荷に……」
「自信がないのかの?」
老人は遮るように言い放った。桂はぐっとして、それ以上何も続けられなかった。
「ええかの。儂も独りよがりではないかと、そう思うたことは幾度となくある。まあ、それはそなたより長う生きておるからの、そなたなど比べものにはならぬ数だろうの。だがの、その独りよがりでしたことでも、喜んでくれるものがおるのだ。そして、それを見る度思うのだ。あの時はああ思うたが、これで良かったのだ、とな。譬え、幾百人が迷惑だと思うても、儂は儂のしたことを喜んでくれる一人のために動くことが出来る。世の中とは、そういうものよの」
喜んでくれる一人のために――。
老人の言葉は、真に迫っていた。実際、そうしてこの老人は生きてきたのだろう。長い年月を、強く――。
「そなた、大切な者はおるのかの? 己れを捨てても構わぬほどに」
桂は、その突拍子もない問いに、考えた。そして、うなずいた。桂の心に、はっきりと佐那の姿が浮かんでいた。
「います。自分のいのちを抛(なげう)ってでも、守りたいと思うひとが」
彼女がいなければ、いのちの大切さなど知ることもなかっただろう。いや、いのちの持つ意味さえも判らずにいただろう。誰かを心の底から大切に想って初めて、自分のいのちが存在することを知った。自分にも彼女にもいのちが宿っていることを、はっきりと認識したのだ。
いのちの存在。
生きているということが当り前過ぎて、却って見過ごしてしまう。身体に宿る魂の存在さえも、信じようとしない。
いのちあるものは、いつかは死んでゆく。
だが、死の瞬間、俄にいのちが自分に存在していたことを知るのでは、意味がない。
「どのようなお人かの? もし、よろしければお話しくだされぬかの」
老人は言った。
「許婚者です。――佐那といって、『山の神』の巫女の孫娘です。佐那は『主の池』に住む鯉の世話をしています」
桂の目が、急に遠くを見つめた。
「佐那がいなければ、私はどうしようもない人間だったでしょう。佐那に出逢うまで、いのちが存在することすら考えなかった。佐那に傍にいてほしいと、そう思ったときに、自分に魂があることを知りました。傍にいてほしいということ――、それは生きていてほしいということなのだと、気付いたのです。私は佐那を失いたくはない。譬えそれが、自分のいのちを失うことになるのだとしても」
佐那に出逢って、いのちの重さを感じることができるようになった。それだけで充分なのだから。
桂は思った。
自分を犠牲にしてでも、佐那を守ることが、自分の生きてきたという証になる。佐那のいるこの世界を守ることが、自分の望みなのだ、と。
この世界にあふれる幾多のいのちが救えるのだとしたら、私は喜んでこの身を投げ出そう。いのちの重みなど、恐らく変わりはしないのだから、私のいのちを差し出して誰かが救われるのなら、何もせずにただ死んでゆくよりも、きっと何倍も幸せに違いない。
「良い娘御のようだの。そなたにそのように想われて……。ならば、そなたはその娘御のために動きなされ。皆のためなどと、大層なことを思わずとも良いではなかろうの。――ただし、くれぐれもこれだけは申しておくがの、いのちだけはお捨てになりまするな。生きてさえいれば、そなたの大切な娘御も傍にいられる。愛しいと思うなら、決して死ぬことはなりませぬぞい」
老人は立ち上がった。
「さて、ぼつぼつ戻るとするかの。長いことここに住んでおるわりに、地上のこと以外にあまり目を向けなんだで、水脈のことはよう知らぬ。お役に立てず悪いがの、頑張りなされ。――そうじゃ」
老人は腰にぶら下がっている瓢箪をひとつ、はずして桂に差し出した。
「これを差し上げるぞい。遠慮はいらぬ。儂はもうひとつ持っておるでの」
「しかし、御老体……」
「問答無用だの。これは贈り物だぞい、そなたへの。儂はそなたが前々から気に入っておった。佐那がそなたに惹かれるのも、判らんではないぞい。――息災でな。いのちは大切にするのだぞい、桂。儂も精一杯のことはするつもりだでの」
老人はそう言うと無理に瓢箪を渡し、ほっほっほっ……と笑いながら、桂に背を向けて歩き始めた。
(桂……)
老人は確かにそう呼んだ。桂は、老人に名乗った記憶はなかった。それなのに何故、老人は桂の名を知っていたのだろうか。
「御老体……!」
桂はよろめきながらも立ち上がり、叫んだ。その声に、老人は振り返った。
「そうそう、言い忘れておったがな、いのちはそなたの思う通り、皆おなじ重さを持っておるの。そなたも佐那も、村長も巫嫗(ふう)も、もちろん儂も……、池の『主』もな……。いのちとは、粗末に扱ってはならぬものだぞい。虫ひとつ殺すのだとしても、虫には虫のいのちがある。ただ闇雲に捕るのは考えものだの」
それだけ言い残すと、また桂に背を見せ、飄々と去っていった。「山の神」の守る森のなかへと――。
「御老体、お聞きしたいことが――!」
桂はハッとして、叫ぶのをやめた。老人の姿が風が雲を散らすように、消えてなくなってしまったのだ。それに、彼の老人がなぜ桂の名を知っていたかなど、どうでもいいことなのだ。
ずっと、「山の神」の姿を見たものなど、いなかった。ただ、小柄で痩せこけた老人の姿で村人の前に現れるという、言い伝えだけがまことしやかに受け継がれていた。飄々とした風貌。しわがれた声。どこかつかみ所のない物言い。
「山の神……」
たしかに彼の老人は、山へ帰っていった。「山の神」の守る山へ。
さやさやと、木の葉が風にさわいだ。急に山の色が鮮やかになった気がした。
桂は先刻までもたれていた木に、背中を滑らせるようにして座り込んだ。その手には、さきほど老人……いや、「山の神」に譲り受けた瓢箪が握られていた。
(かならず護ってくださる)
ククク……と、低く桂は笑った。ありとあらゆる咎から逃れた気分だった。
おそらくこの大旱は、山の神が留守をしている間に起こったものなのだろう。ならば、神が戻ってきた今、もう何も恐れることはない。―しかし。
陰のある顔。精一杯のことはすると言った、あの表情を思い出し、桂に不安が蘇った。
「桂様ーっ!」
その時、遠くで村人が桂を呼んだ。彼女は桂の姿を見付けたらしく、そのほうへ向かって歩き出した。その手には大事そうに何かを持っていた。
「こちらにいらしたのですか。お水をお持ちしました。この暑さでは、お疲れでしょう」
水筒を差し出す。それに対して、桂は首を横に振った。
「少しはお飲みにならないと、いけませんよ」
ジリジリと焦げ付く暑さを避け、木陰で休む桂に、村人が心配そうに言った。
「私は大丈夫だ……。大して苦しくはない」
ゆっくりと答える桂は、随分とやつれている。
「でも、もう三日も何も口にしていらっしゃらないじゃないですか」
自分が苦しい時、他人はもっと苦しい思いをしている――そう教えられてきた桂にとって、己れを犠牲にすることなど、容易であった。
「巫嫗様の言われたことは、気になさらなくっても宜しいのですよ」
水を勧めるその人に、軽く手を左右に振り、申し出を断る。
がっかりした様子で、村人は竹の水筒を下げた。
「本当にいらないのだ。水ならここにある」
桂は水の入った瓢箪を、村人に渡した。
「これは……」
「旅の老人にいただいたものだ。勧められて少し飲んだが、まだ大分残っている。――たしか、菜於利(なおり)殿の末っ子が、暑さにかなり参っていると聞いている。持っていって、飲ませてやりなさい」
村人は、自分の手の中にある瓢箪をじっと見つめた。そして、目を上げて桂を見ると、にっこりと微笑んだ。
「判りました。きっと、渡します」
そういうと、スッと立ち上がり、村のほうへ軽い足取りで歩き始めた。
いのちの大切さを――。
村の皆が、優しく暖かい。皆がいのちの重みを知っている。それが今、はっきりと判る。
『巫嫗様の言われたことは、気になさらなくっても……』
村人の言葉。気にしていないとは言い切れない。でも、この暖かさに報いるために、桂は人々を守らなければならないと、そう思っていたのだった。ただ……、それだけだった。
巫嫗というのは、佐那の祖母のことである。
その巫嫗が来て、村長に重大な事態を話したのは、四日前のこと。それ以来、桂は物を口にしようとはしなくなった。
話は、佐那が「主の池」の水嵩が減っていることに気付いた、という報告から始まる。
「巫嫗殿、急用とは何事じゃ」
村長が、杖にすがりながらやって来た巫嫗に訊いた。
「巫嫗とは私のことか、村長。私は巫女であったはずじゃがのう」
とぼけた様で話し掛ける。
「何の、巫女とは若い『神に仕える者』じゃ。そなた、孫がおるのに若いつもりか。巫嫗とは貫禄のある呼び名ではないか。巫女が老いれば、巫嫗に変わることくらい知っておろう」
クククと笑いながら、村長は答えた。
「ところで、話しとは何じゃ、巫嫗殿」
ぶつぶつと文句を言っている巫嫗に、村長は言った。
「おお、実はな――。言い難いのじゃが、とうとう、主の池までも、日照りにやられてしまったんじゃよ。嵩が減っていることに佐那が気付いてのう……」
「水嵩が……?」
驚いたように、桂が言った。
「ああ、そうじゃ。今までにないことじゃで、村長の爺の耳に入れておこうと思うてな。さっきも佐那が何やら慌てて『主の池』のほうへ駆けて行ったから、また何ぞあったやも知れぬ」
巫嫗は、息をついた。そして、ゆっくりと続ける。
「『山の神』は、何処かへ旅にでも出掛けておられるのかもな……。それとも、水の神である龍神と言い争いでもなされたか……」
「龍神?」
「そうじゃ。水は総て龍神の領域。我らが『山の神』も、池の水は守れても、雨を降らすことは出来ぬじゃろう。しかし、池の水も元はと言えば雨じゃ。日照りが続けば、いづれ水は涸れよう。『山の神』が守ろうと、『主』が守ろうとな……」
淡々と語る巫嫗は、寂しそうに見えた。己れの無力さに諦めの気持ちを抱いているかのように、伏し目がちに……。
「でも、まだ山の神と龍神が言い争いをしたと、決まった訳ではないでしょう。望みはあります。きっと、大丈夫です」
桂は毅然とした態度で言い切った。
信じましょう。信じて、その時を待つのです――迷う心をつなぎ止めるのは、信じること以外、何もないはず、だから――。
――私は……。
桂は、村長と巫嫗がうなずくのを見た。
「信じて待つ……か。良いことを言うな」
村長は、去って行った隣の村の人々のことを思った。迷った挙げ句、村を離れることを決めた、者達のことを。
守らなければ――。
桂は思った。ひとりだも多くの人々に、生き続けてもらわなければ、と。
――私は、どうすれば良いのだろうか――
無力な我々に出来ることは、いったい何なのだろうか。
大切な人たちを守るためには、何をすれば良いのだろうか。
大切な……。
桂の脳裏に、佐那の顔が浮かんだ。
必ずあの笑顔を守る。そのためには――、そのためには……。
2000.09.05 up