未知海 ――水面に映る――


――第五章――


 日照りが村を襲い、幾日も過ぎて水が尽きてきた頃、村長は人を集めて相談をした。
 「今年の日照りは、何かおかしいとは思わぬか。水が尽きる事など我が村ではなかったではないか」
 村長は、口々にそう言う村人達を、宥めた。
 「我々には『山の神』がついておる。決して我が村は死なぬ」
 そう言って宥めては、曇りもしない空を見上げた。
 「しかし……」
 ある者が言う。
 「此の侭では、すぐに残りの水も尽きてしまいます。何とかしなければ……」
 そうだそうだと、他の者も口を揃える。
 「……とりあえず、井戸に蓋をして、水を一日に決められた分だけ、汲みましょう」
 村長が、ゆっくりと桂の方へ目を向けた。
 「皆に平等に行き渡るように、水を汲むのです。勿論、いつまで続くか判らないこの日照りを考えて、少しずつ、決められた者が、決められた分だけ汲むのです」
 なるほどと頷く。
 「それから、万が一の事もありますから、なるべく、物の腐らない場所を確保して、ある程度の水を貯えておくべきでしょう」
 「ても、今も村長が言われた様、我らの村は『山の神』が守って下さる。万が一の事など、あろうはずが……」
 「それでも、もしも、という事は有ります。日照りは、我らの村だけの問題ではないのですから。隣の村も、同じ状態なのです。そして、その隣の村も……。我らの村だけが助かるなど、あってはならない。周りの村も共に助からねば、きっと後悔する時が来るのだから」
 誰もが桂の言葉に、口を噤んだ。自分だけが、自分達だけが助かれば良い、などと考えていたことに気付いたからだ。
 隣の村では、幾人かが亡くなったと聞いた。田も畑も乾上がってしまい、今年の収穫は望めないと聞いた。
 我らの村は、まだ生きている。そして、今雨が降れば、まだ収穫は望めるのだ。
 「誰でも、自分のことはかわいい。けれど、他の人のことも考えて、困っている時は助け合わなければ。我らが困っているとき、彼等もきっと困っている。小さな力も、合わせれば大きくなるのだから。……以前、我らの村の領域で火事があった時、隣の村の者達は手を貸してくれた。その時のように、今度は我々が手を差し伸べる番なのです」
 判り切っているはずのこと。
 しかし、いざとなった時、その行動の難しいことよ……。
 皆、言葉を失ったまま、静寂の時間が流れていった。
 「村長……」
 戸の外よりの声に、耳を澄ます。
 「何用じゃ。入るが良い」
 男がひとり、村長の言葉に従い、室へ入ってきた。
 「隣の村の村長の代理とかで、使いが来ておりまするが、如何致しましょう」
 「隣の村の使い……?」
 村人達は、互いに顔を見合わせた。

 村を守りたい。
 守り続けたい……。
 心の底では、今もそう思っている。
 けれど、判ってほしい。
 我々は逃げるのではないということを。
 生きるためには、仕方のないことだということを……。
 我々は、多くの者を亡くし過ぎてしまった……。
 ただ、もう此れ以上の者を亡くしたくはないのだと、
 生きることを選んだ我々を、
 責めないでほしい……。
 帰ってくるから――。
 必ず、帰って来るから、だから、
 今だけは、判ってほしい……。

 「村を……捨てる、と……」
 悲しげに響く声。
 「そう言われても、何も言い返すことは出来ません。でも、我々はこのままだと、駄目になってしまいます。その前に、少しでも多くの者が生き残ることが出来る方法を選んだのです。判っていただけますか」
 応える声も、掠れ、弱々しい。
 「それで、水を分けてほしいと……」
 「はい……。こちらでも、足りないこととは存じますが、ほんの少しでも結構です。水を分けて下されば……。虫のいいお願いではございますが、何とぞ、お分け下さい」
 使いの者は、そう言って平伏した。
 その態度に村人達は、何とも言えぬ物悲しさを感じていた。
 「でも、もうじきに雨が降るやも知れませぬぞ」
 村長はゆっくりとそう言った。
 「いえ、そうだとしても……、譬えそうだとしても、我々には、生きる術がありません。今、雨が降ったとしても、収穫はまるで望めないのです。それより、今は散らばって暮らして、少しでも多くの者が生き残ることが出来るようにするのが、最良の策なのです」
 項垂れる使者の背中が、とても小さい。
 何がこうしたのだろう。
 何故こうなってしまったのだろう。
 そして、項垂れた自分達の姿も、こんな風なのだろうか。
 「最良の策だと申されましても、散ってしまえば何処に誰がいるか、判らなくなってしまう。此処に残ることをもう少し考えてくだされば、我々も援助は致します。水も食料も……」
 「そう申して頂けるのは、とても有り難く思います。しかし、この村でも苦しい思いをしておられるので御座いましょう。我らは迷惑をかけられません」
 桂の言葉を遮るように、使者は言った。
 「迷惑だなどと……。我らは、少しでも力になりたい、それだけです。以前、我らの村の領域で山が燃えた時、あなた方は手助けをしてくれました。その恩をお返し致したいのです。今、我らは、あなた方の為に、何かをして差し上げたいのです。生き延びるなら、共に生き延びようではありませんか。差し伸べた手の、温かさを思い出してください。小さな力でも、合わせていけば、濁流をも溯ることが出来るのですから」
 ハッとして目を上げた使者が、桂の顔を見つめた。
 「神の声を……、聞いたのかと思いました……」
 涙が頬にこぼれ落ちる。
 「このような非常時にまで、他人の事を考えられるなど、出来ません。決して、出来ません……。有り難うございます。誠に、有り難うございます……。それでも、我々は此処を離れていきます。今は……、我々は多くのものを失ってしまいました。多くのいのちを、失い過ぎてしまいました。哀しみが、重過ぎるのです。背負い切れないのです」

 ――多くのものを、失い過ぎてしまった……。

 胸に響くその言葉が、、何度も何度も耳に蘇る。
 「我々を哀れんでくださるのでしたら、今は、ここを離れさせてください……」
 使者は、グッと頭を深く下げた。
 「――戻って……来るのですか? いつか、ここに戻って来るのですか?」
 誰かがそう訊ねている。自分なのかも知れないが、遠くに響く谺(こだま)のような気もする。
 「五年したら、五回目の春を迎えたら、戻って参ります。必ず、戻って参ります」
 「必ず、ですか。本当に必ずですか」
 「はい、必ず、です。ここは、我々の故郷です。ここの他に戻る所は御座いません。……いえ、他の土地へ行くなど、考えられません」
 先刻までとは打って変わった強い口調で、使者は言った。
 「判りました。でも、寂しくなりますな……、これから。幸運をお祈り致しましょう」
 「はい、そちらこそ、村が『山の神』の守護で生き延びられますように」
 スッと立ち上がり、ゆっくりと歩み出す。
 外の強い陽射しで、目が霞む。
 「明朝、出立致します。あなた方の御恩は、決して忘れません」
 背負った桶に一杯の水。目礼を幾度もする。
 もう二度と会うことはないかも知れない。

 ――私は……――

 去って行く者と、踏み止まる者。
 どちらが幸せなのかは、判らない。
 どちらが辛いのかも、判らない。
 でも、自分で選んだのだから、これが一番の幸せな方法。きっと……。

2000.08.18 up



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