――第四章――
村人たちは言った。
「山は尊いものだ」。
口々にこう言った。
「山は高く、尊い。高い山には、神が宿っている」。
しかし、時の村長はそれを否定し、こう正した。
「山は高いから尊いのではない。
木々が茂り、泉が湧き出、川が流れて、それらがいのちを育む。
我々のように、取るに足らぬいのちまでも育まれる。
神は高い山に宿るのではない。
いのちを育む所に、神は居られるのだ」。
それから、村長はその朝見た夢を語った。
「夜明けのおぼろげな光の中、いのちの女神が立たれた。
そして、こう儂に告げられた。
いのちを尊ぶ其の方等に、贈り物をしよう。
これから幾百年か後に、四人の若者が現れる。
彼等の未来は非運であるが、それを嘆いてはいけない。
彼等の子は、伝説をつくる。
その礎として、彼等はあるのだ。
それを乗り越えた先も、我らのことを忘れぬ限り、
久遠の幸福を与えよう。
我らは常に、其の方等の傍らにある」。
むかし、むかしの物語である。
「よっこらせ……」
そう、その人は声に出して、立ち上がった。小柄な体に、薄汚い焦茶色の麻の着物を身にまとい、竹で編んだ笠をかぶっていた。
「年寄りには、ちいっとばかりきつい旅じゃったの」
言いながら、ふうと息を吐く。「山の神」は、鬱蒼とした沼の淵に立っていた。幾つかの山と谷、幾つもの川を越えて、ようやくここまでやって来たのだ。思えば長い旅だったと、そこまでに至る道程を振り返り、老人は深い感慨すら覚えた。遠い道程だった。長い道程だった。だが、ようやくこの沼を探し当て、たどりついたのだ。
――この、龍神が棲むという、沼を。
その暗い沼の、水面に何かが潜んでいる証が見えるのを確かめ、山の神は大きく息を吸い込んだ。
「龍神よ……!」
谺することもなく、その声は沼に飲み込まれていった。
「龍神よ! 吾れは山の神じゃ! 折り入って話がある故、姿を現わせ!」
しんと静まり返る沼。山の神の呼び掛けには、応える気がまるでなさそうである。
「龍神よ! いるのは判っておる、潔く出て来るが良い!」
何事も起きない静かな沼。その水面が今、音も無くざわめきたち、大きくうねりを見せた。
ザザァーッ、と音を立てて水が左右に割れると、その間から龍神が現れる。
「潔く……、とは何事ぞ。山の神」
鈍い黄金色にひかる目を、山の神に向ける。しかし、山の神は脅えなかった。普通、その龍神の目は言い知れぬ恐怖を向けられた者に与えるのだが、山の神にはその恐怖をものともしない、確固たる自信があったのだ。そして、それにも勝る一種の使命感に燃えていたのだ。
「不機嫌そうだの、龍神よ」
いつもの、飄々とした趣きで伺いをたてる。
「応、我は機嫌が悪いぞ。何用じゃ、山の神よ。此の様な所までわざわざ押し掛けてくるとは、唯事ではなさそうじゃのう。しかし、ここは我の棲み処ゆえ、事と次第に因っては、ただでは済まさぬぞ」
カッと、龍神は目を大きく見開いた。自分の縄張りに入り込まれたことが、龍神はかなり腹立たしいらしい。
「吾れが此処までやって来たのは、他でも無い、折り入って話があるからだの。でなければ、此の様な所までやって来る筈がなかろうが、のう龍神よ」
山の神は語調を一分も変えなかった。
「此の様な……とは、随分な言い様だな。――まあ良い。さっさと用件を済ませるがいいぞ、山の神」
ムッとしながら、龍神は横柄に言った。
「固(もと)よりそのつもりであったが、御主があまりに現れるのが遅かったでの、つい文句を並べ立ててしもうたわい」
山の神はケロリとしてそう応じると、今度は打って変わったような強い言い方で、真直ぐに龍神を見据えたまま続けた。
「御主、いい加減にいのちを弄ぶのを止めたらどうか。水を司る神で、土の上に生きるものを潤す水を与えるのは、御主しかおらぬ。だからと言って、此れ程傲慢な態度に出られては、吾れはもう我慢ならぬ」
「何が言いたい……」
チロリと、龍神の大きく裂けた口から、赤い舌が苛立たしげに覗いた。
「吾れが何を言いたいかは、御主が一番良く知っているのではないかの、龍神よ」
ゆらりと、山の神の貌が歪んだかと思うと、そこにはさっきまでの老人の姿ではなく、ひとりの若者に姿を変え、同じように龍神を見上げた。
「洪水を起こすのは、止めてほしい。どれ程のいのちが其の為に消えたか、判っておるのか。我ら神は、いのちを育むものではないのか。吾れの住む郷には手を出さぬ様にしているらしいが、吾れは山の神。総ての山を司る神だ。山に住むいのち有るもの総て、吾れの庇護の下にある。吾れには責任があるのだ」
いのちを育み、いのちを摘み取る。
山に生まれ出たいのちは、山で育ち、生き、新たないのちを産み出しては、また、土に還ってゆく。山で育ついのちは、山の神を慕い、常に感謝の気持ちを忘れない。だから、山の神である彼は、その感謝に応えるために、彼等の苦しみを少しでも和らげようと思案しているのだ。いつもいつも、そのいのちの果敢なさを嘆きつつも、決して見放すことなど出来はしなかった。
「姿まで変えるとは……、怒りはかなりのもののようだな、山の神。だが、その生きものの中に、高慢なものもおることを忘れている訳ではあるまい。我が水を与えても、感謝すら見せず、それが当たり前のような顔をして平然としておる。我は御主と違って感謝ひとつされた例しがない。――水が欲しければくれてやる。逆に見向きもしないようなら、そのようにあしらうまでのこと。我の何処が悪いというのだ。御主の癪にさわったというならば、其の時の腹の虫の居所が悪かっただけだろう。我は何も間違ったことはしていない。御主にとやかく言われる筋合いなど無い」
グワッと龍神は吼え、その目は赤味を帯びた黄金色に変わり、大きく舞い上がった。
「我は理解出来ぬ。何故そこまで虫螻に対して誠実であろうとする。恩があるのか、奴等には。御主だとて、蔑ろにされたことも多かろうが。山に火を放ち、杭を打ち込む。良い様に木々を倒し、山を切り開く。我は知っておるぞ。それでも、御主は虫螻に肩入れすると言うのか。ただ、極稀に見せる感謝の念のために、我に指図をするというのか」
龍神は、狂ったように空を舞った。ただ、その苛立ちをぶつけるためだけに、雷雲を呼び、嵐を起こした。
「そうだ、吾れはそれでも見捨てることは出来ないのだ。嗤(わら)いたくば嗤えば良い。罵りたくば、そうして構わぬ。ただ……」
山の神は、手にしていた杖で、地面を勢いよく突いた。ゴオオ……という怒号と共に、激しく大地が揺れ、龍神の沼の縁が崩れた。
「いのち有るものを傷付けることは許さぬ。吾れの庇護の下にあるものを弄ぶことは決して許さぬ。――覚えておくが良い。もしも、また吾れの領地で何事かあったなら、今度は御主の沼を跡形も無く、埋めてやる。そして、四十三万と八千、日が昇りまた沈むまでの間、地に下り立ち、身体を休めることはならないだろう。天空の暗雲を御主の栖(すみか)とするが良い」
怒りを押し殺した、低い声で山の神は言った。その姿がぼんやりとした光を帯びて、龍神の呼んだ暗闇の中で浮かび上がった。
「呪いの言霊を吐いたな。直ぐに取り消すが良いぞ、山の神。然も無くば、御主の領地を放っては置かぬ」
龍神は、稲妻を空に走らせた。ドーンと、凄まじい音を立てて、近くの大木に落雷し、燃え上がった。
「此の様に御主の領地を燃やし尽くすことも、我には出来るのだ。判るか……? 大地の力を失った御主など、恐るるに足らぬわ。神としての格は同じだとは言え、能力は我の方が遥かに上。大地とは、支えるもの。御主はただ、黙って空を支えて居れば良いのだ。他の事になど、口を挟むな」
龍神は山の神を嘲笑った。その言葉の実(まこと)の意味も、何を示すのかも、何一つ考えもせずに、山の神を呪い続けた。ただ、己れに向けられた憤りを跳ね返す、そのためだけに乾いた笑いを、呪いの言霊を、山の神に浴びせ続けた。
「……憶えて置こう」
山の神は静かにそう、呟いた。
そして、決して忘れまい。
龍神が暗雲の中に姿を消すと同時に、山の神の姿は地中に飲み込まれていった。地脈を通っての、家路についたのだ。
そして、龍神が己れが山の神に掛けた呪いの言葉の意味に気付いたのは、それから暫しの歳月が過ぎた後の、悔いに苛まれた時のことであった。
2000.08.18 up