未知海 ――水面に映る――


――第三章――


 ザザァーン…
 波が打ち寄せる。不思議なものである。海の波は、ゆっくりと大鯉の傍へ近付いては、また、遠ざかっていく。
 大鯉は河口から動けずにいた。その感動を今しばらく、味わっていたかったのだ。
 これまで、大鯉は「主の池」しか知らなかった。「主の池」が。一番広いと思っていた。だから、自分に誇りを持っていたのだ。
 最も力のある鯉は、自分である、と――。
 しかし、今は違った。
 大鯉は、今まで「井の中の蛙」だったことに気付いたのだ。
 「井の中の蛙、大海を知らず」――この諺の意味がそのまま、大鯉に当て嵌まった。
 井戸の中に住む蛙は、その井戸だけが自分の世界で、また、最も広い世界だと思っている。でも、一度外へ出てみると、自分の住んでいた所が、狭くて暗い場所だったことに気付く。正に「目から鱗がおちる」ということだ。
 佐那……。
 ふと、その名を思い出した。
 そうだ、佐那は海を見たことがあるのだろうか。海を知っているのだろうか。
 この海を佐那に見せたいと、大鯉は思った。いや、佐那だけでなく、村人や他の鯉にも見せたいと、大鯉は思った。
 その為にも、大鯉はこの大海原を渡り、「龍門」を登らなければならない。龍になって、村を救わなければならない。
 遂に、大鯉は海を泳ぎ始めた。


 五歳になったある日、佐那は祖母に連れられて、初めて「山の神」の守る森へ入り、祠に祀られている神に、名を告げに行った。
 「佐那と申します。歳は今年五つになりました。ここまで育ちましたのも、皆、貴方様の御陰があってのこと。故に御報告に上がりました。これから先も、これまで同様、この娘と村の守護をお願い致します」
 佐那の祖母は、そう「山の神」に言うと、深く頭を下げた。
 「ばばさま、佐那は、何と言えばいいの?」
 佐那は祖母を見上げた。
 「佐那と申します、と言えば良いのじゃ」
 祖母は佐那に、優しくそう答えた。
 「佐那といいます。よろしくおねがいします、『山の神』さま」
 そう言うと、ぴょこんと頭を下げた。
 肩のところで綺麗に切り揃えられている髪が、さらさらと揺れる。ふっくらと子供らしい可愛い表情は、頬に赤みがさして、優しげに見えた。
 「ばばさま、お魚がいるよ。何というの?」
 池の祠の近くに、ついと鯉が現れたのを見付け、佐那は訊いた。
 「鯉というのじゃ。鯉とな」
 「鯉? 鯉という名なのね」
 パシャッ……、と佐那に鯉が水をかける。
 きゃっ、と小さく佐那は叫んで、祖母の後ろに隠れた。
 「鯉、怒ったの、鯉?」
 鯉の様子に驚いた佐那は、恐る恐る祖母に訊ねた。
 「いや、佐那が気に入ったんだよ。挨拶じゃ。『よろしゅうに』とな、言うておるんじゃ」
 祖母は、佐那の頭を撫でながらそう言った。
 「ささ、鯉に挨拶をしてごらん。きっと、良いことがある」
 祖母にそう言われて、佐那はそおっと池に近付き、覗き込んだ。
 すうーっ、と何匹もの鯉が音もなく泳ぐ姿が、澄んだ水面に波紋を広げる。
 佐那はじっとその鯉を見つめた。何故か、鯉は佐那に驚いた様子もなく、それどころか、佐那の近くに好んで寄って来るようである。
 「鯉……」
 ゆっくり、佐那は言った。
 「あたしは、佐那というの。佐那は鯉が好き。大きくて、きれいな鯉が好きになったの。鯉も、佐那のこと、好き? 好きなら、佐那、毎日会いに来るよ。ねぇ、佐那のこと、好き?」
 パシャリと、水が跳ねた。
 鯉が次々と水面に顔を覗かせる。そして、また水底に沈む。
 「好き! 好きなのね。佐那も、鯉も、みんな好きなんだね」
 きやっきゃっと喜声をあげて、佐那ははしゃいだ。
 「ばばさま、佐那ね……」
 佐那が振り向いて祖母に話し掛けたとき、
 バッシャーン……
 と音を立てて、一匹のそれまでに見たこともないような大鯉が、水中から、跳ね上がった。
 「主……」
 ゆるやかな弧を描くように、その大鯉の水中に落ちてゆく様が、ふたりの目に映った。
 「主じゃあっ! が、現れたんじゃあ!」
 へなへなと地面に座り込む祖母が、叫んだ。
 それが、主と佐那の出逢いだった。


 池の鯉は、池の主。
 主は姿を現わさぬ。
 暗い池の水底に、静かに沈んで池を守る。
 池の水を守り続ける。
 湧き出づる水を、主は守る。
 よって、姿を現わさぬ。
 決して、現わさぬ――。

 佐那は、池へ鯉の餌をやりに行くようになった。
 鯉は、何故か佐那に懐いた。姿を現わすことの少なかった「池の主」までも、佐那がやって来るときは、水面に浮かび上がって、佐那に水を掛けるなど、おどけてみせた。
 佐那も村人達も、そんな「主」の様子に、すっかりと畏敬の念を忘れ、友人のような親しみを持って接するようになっていった。
 「主ーっ」
 十年の歳月が過ぎた、ある日のことである。
 佐那は、ひとりの若者を連れて、「主の池」へやって来た。
 「主、聞いて。私、嫁ぐことになったの。今年の秋のお祭りが終わったら、この人と夫婦(めおと)になるの」
 水面に浮かび上がった主に、佐那は嬉しそうにそう告げた。
 「桂よ。知っているでしょう? 幾度もここへ来ているもの。昨日ね、村の人達とみんなで決めたのよ。桂なら、主も気に入っているみたいだから、きっと大丈夫だって。――ねぇ、主。桂と私、夫婦になったら、今度はふたりでこの池を見に来るわ。……主、桂のこと、好き?」
 好き――と訊く佐那は、十年の間にとても綺麗になった。髪も長く伸び、いつの間にか、声も大人びたしっとりとしたものに変わっていた。そして、恋をしる少女へとなっていた。
 不思議なもので、恋をしている佐那は、いつもより輝いて見えた。表情も、ぐっと豊かになった。小さなことでも、すぐにくよくよと悩んだり、溜め息を吐いたり……。
 遊び相手のようだった「主」との関係も、全ての悩みを打ち明けることの出来る、大切な「相談相手」に変わっていた。勿論、佐那の問いかけに「主」が答えることはなかったのだが……。
 桂という名の若者は、佐那と共に、よく「主」の世話をしに来ていた。彼は、佐那では出来ない、力仕事を中心に何かにつけては池へとやって来ていたから、「主」も佐那同様、懐いていた。池の近くに傷付いた鳥を見付け、手当てを施して山へ帰したのも、彼である。弱い者へのいたわりの心を、桂は持っている。
 そんなところに、佐那は惹かれたのであろうか。それとも、桂ならどのような時でも守ってくれる、という信頼から始まった「想い」なのだろうか。いづれにしても、このふたりなら、あたたかな家庭を築くであろう。
 桂は、とてもあたたかな人なの――。
 佐那は「主」にそう告げた。「桂なら、主もきっと好きになる」とも言った。
 その後、どういう経過があったのかは、皆目判らないが、いつの間にやら、桂と佐那は恋仲になっていた。
 「私はあの人のことが好きです」
 はっきりとそう告げた、佐那の真剣な表情が懐かしい。
 「好きだから、主には知っていてほしいの。もしも、主があの人のことを嫌いだったら、私は困ってしまう」
 主は、佐那の近くを、ゆっくりと泳ぐのだった。
 桂という若者が、どのような者かは、大方の見当がついた。あの佐那が好きになった若者である。村の者も一目置いているような素振りを見せる。

 ――桂って人はね……、そうね、あたたかな人だわ――

 村長の孫で、「鳥寄せ」がとても上手く、自然現象にも詳しかった。
 桂――。
 樹木の名を戴いたのは、桂の優しい紅色の花が、その春初めて開いた日に生まれたからだと聞いた。桂の花の様に優しく、桂の樹の様にしっかりと育ってほしいと、村長が名付けたのだと聞いた。
 皆に好かれる、素晴らしい若者だったのに……。
 将来、村長にと、教育を受け、そして、佐那という、村の巫女を努めている老婆の孫娘との縁談も調ったというのに――。
 逝ってしまった人は、帰って来ない……。

2000.08.16 up


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