――第二章――
その頃、「山の神」の村では雨乞いの儀式が、多くの神子(みこ)達の手によって、執り行われていた。雨が降れば、今、雨が降れば、まだこの村は助かる。まさしく、藁をも掴む思いだった。
「ひとーつ……」
神子の一人が、太鼓を叩いて、そう叫んだ。
「ああ、頼むで雨を降らせて下され……」
村人達は、口々に空に向かって懇願した。
「静かに……」
神子が村人の様子を窘めた。
からりと晴れ上がった空。雲ひとつ見付からない。灼熱の太陽が、大地を灼き付ける。夏には、当たり前すぎる昼間の空模様だが、今年は夕立ちすら降らず、過酷なものであった。何故、雨が降らないのか、分からない。「山の神」の守護を受け、これまで生きてきた村が、瀕死の状態なのだ。
「『山の神』の神通力が消えた……」
「祟りかも知れぬ」と、神子を呼び寄せ、祈祷をする。
「ふたーつ……」
また、神子が太鼓を叩いては叫ぶ。
しかし、雲ひとつ現れるでもなく、空は鬱陶しいほどに晴れ渡っている。
水は疾うに尽きており、唯一個所残っているのは、「主の池」のみであった為、村人達は、決められた時間に決められた分だけ「山の神」に許しを得て水を汲み、それで何とかこれまで繋いできたのだった。
「此の侭では、『主の池』の水も尽きてしまうじゃろう」
神子達が捧げる祈祷の焔の、火の粉が巻き上がる様を後目に、村長(むらおさ)の翁(おきな)が残念そうに呟く。翁は、村の命運を総て知っているかの様に、ゆっくりと近くの者達に語り掛けた。
「『山の神』は、龍神と喧嘩でもなされたのやも知れぬ。我々は、自分達を守って下さる神にのみ祈り、他の神をぞんざいに扱ってきた。その酬いが今度の大旱(たいかん)なのじゃろう。儂(わし)は此の侭死ぬも一興、生き延びるも一興じゃと思うとる。しかし、それでは、他の村の者が不憫でな……。ほれ、特に佐那じゃよ。彼の娘は『主』の世話を長きに渡ってしておろう。佐那は池の主と仲良う、随分と過ごしてきておる。それだけでも、可哀想じゃというに、主の神通力が消えたとなれば、それで、この大旱で大勢の死人が出れば、自分の世話が足りなかったと思うやも知れぬ。神も罪作りじゃのう……。佐那は何もしておらんではないか。彼の娘は、彼の娘なりに、懸命であったものを……。せめて、彼の娘だけでも良いから、生き長らえさせてはくれんかのう……。儂のいのちと引き換えでも構わぬ。村が死んでも、彼の娘が生きていてさえすれば、我々の事を覚えていてくれるであろう。『山の神』の事も、きっと大丈夫じゃろうて……」
はたと、涙が膝の上に落ちた。
「長生きはするもんじゃ。今度の大旱の様に悪いことも多いが、良いこともその分多いでな……。此処でこうして死んでいったとしても、此れは此れで儂の定めじゃ。何ひとつ思い残すことはない……」
村長は「主の池」のある丘を見上げた。その背後の山々に覆い被さるように降りている空は、雲ひとつ見当たらず、快晴、と言ったところであろう。いつもならば、これといって憂えることもなく、仕事がはかどると大喜びをしていることだろう。
「佐那は、強い娘になるじゃろうか。今よりも、もっと強く――。これから先、一人で生きて行かなくてはならないとすると、辛いことも多かろうに。哀しい事も多かろうに――」
ほんの数カ月前、佐那は幸せの真只中にいた。しかし、運命とは皮肉なもので、その数カ月の間に、彼女は不幸のどん底に突き落とされてしまったのだ。
「嗚呼、若し、神に慈悲の心が御座しますならば、せめてこの爺のいのちと引き換えに、佐那を幸せにしてやってくだされ。儂の最後の頼みじゃ、彼の娘だけは、幸せに――」
佐那は、いつも幸せそうに笑っていた。村人は皆、その笑顔が好きだった。「山の神」の祠を十年以上も守り続けていた佐那のお陰で、今まで安穏と暮らしてこられたのだ。
それを思えばこそ、尚更彼女の未来に、幸せを願って止まない。
許婚者(いいなづけ)がこの大旱で死んだ悲劇も、その感情に大きく作用していたのは確かだが、ひとりひとりが、特別な思いを彼女に託す気持ちもあった。
突然、シャララーン……と、神子が鈴を鳴らした。
「ひいっ」と声にならない声を上げ、憑坐の童女が、地面に突っ伏した。
「何事ぞや、何事ぞ」
村人達は、一体何が始まろうとしているのか、ざわめきながら童女の周辺に集まり、遠巻きに様子を窺った。
「聞き取れぬ故、静かに」
神子のひとりが村人を窘めた。
「悔しい……。悔し……い……」
嗄れた声が、童女の口から出る。この世の者とは思えぬ、無気味な声。
童女は続ける。
「悔しい……。吾れが何故、此の様な思いをせねばならぬのじゃ……。吾れは、此の世に良かれと思うてしたことなのに、何故、吾れを苦しめるのじゃ……。龍神は、他の地でよく洪水を起こし、人々を苦しめて居る……。それ故に、吾れは頼んだまでじゃ……。雨を降らすなとは、言うておらぬ……。あの旋毛曲がりめが、吾れの土地に雨を降らせまいとしておる。嗚呼……、村人達に何と詫びれば良いのじゃ……」
カサカサした声が、ふと跡絶えた。
「佐那……」
その言葉を聞き、ハッとして、村長の翁は童女に向かって訊ねた。
「もし……。もしやして、貴方様は、我等が村を守って下される『山の神』では、御座いませぬか」
ゆっくりと、童女は翁に鈍くうつろな目を向けた。
「いかにも……、吾れは山の神じゃ……。吾れ、幾百年という歳月をば、此の地で過ごしておるが……。村長よ……、誠に此の度は、済まぬことをした……。だが、吾れは、龍神の行動には目に余るものがあった故、その旨、伝えたまでのこと……。吾れの気持ち……判ってくださらぬか……、村長よ……」
嗄れた声は、静かに語る。
「吾れを責めても良い……。恨んでも……憎んでも……。吾れの所為で……桂は死に、佐那は悲しみに暮れて居る……。吾れが龍神と諍いさえ起こさねば……、桂は生きていた。桂は、己のが身を捨てて迄、皆を守ろうとしたのに、吾れは、其の方等を救うことすら出来ぬ……」
しんと静まり返った中、火花が焔からパチパチとはじける音だけが聞こえてくる。
「桂が死んだのは、儂の所為でもあるのです。幼い頃より、己れを殺すことばかりを教え、その結果がこの有り様……。しかし、皮肉な事ではありまするが、桂の死があればこそ、我等は、少しでも共に生き長らえんと、思うて居りまするのじゃ……」
村長は、ふと遠くを見る目をした。かつて、桂がそうしたように――。
「判って――くれるのか? 村長よ……。吾れを責めも、恨みもせぬのか……」
山の神は、訝しげに問う。
「……山の神よ……。我々、此れ迄こうしていきてこられたのも、貴方様の御陰……。此処でいのち尽きようとも、構いませぬ。我等は、此の村とともに生き、そして、共に死んでいくのが定め。譬え、この大旱で死んだとしても、本望で御座います。何も貴方様の詫びられることはございませぬ」
村長は、山の神にそう告げた。
ううっと、低く憑坐の童女が呻いた。
つうーっと、童女の頬に涙が伝った。
「村長よ……。吾れは、永く生きておる。そして、此の先も復(また)、永く生きてゆかねばならぬ……。其の方等が生まれ、老いていき、そして、時が来れば死んでゆく、それを数えきれぬ程見てきた。果敢無いものよと、思うておった。だが、吾れは間違うておった……。其の方等は果敢無くなどない……。力はなくとも、その心は何と強いのだ……。吾れは、今迄、嘆いてばかりおった……。嘆くのは、其の方等の方なのにのう……」
誠、果敢無いのは、吾れの心なり――。
村長から視線を移した童女の涙が、乾いた。
「のう――、村長よ……。吾か山は、此れ程までに、寂れておったのか……」
寒々とした光景であった。青々と生い茂っているはずの木々は、晩秋の頃のようで、枯れかけのものもある。
ただ、秋ではないことが判るのは、焼け付くような陽射しの為せる業であった。
「哀しいものですな……」
ふうっと、村長は溜め息を吐いた。
童女の目は、山をジッと見据えたまま、動かなかった。そして、その視線はある一点に注がれていた。その一点とは、あの祠のある「主の池」周辺だと判る。枯れかけの木々の中、その一点だけ緑が残っており、何故か異様な感じを醸し出していた。
「佐那……。ああ、佐那は『主』を逃がしたのだな……。優しい娘よのう……」
「山の神」は、嬉しそうに言った。
「吾れは、彼の娘はもっと強くなると思うぞ」
フッと、憑坐の意識が跡絶え、倒れ込んだ。
「山の神」は、最後の水を守り抜く為、山へ帰ったのだった。
2000.08.16 up