未知海 ――水面に映る――


――第十三章――


 佐那は、「主の池」のほとりに座り、鯉の泳ぎ回る様を見ていた。
 村のほうからは、祭りの歓声が聞こえて来る。
 実りの秋。いつもと変わらない収穫祭。すべて昔と変わらない日々。明るい陽射しが「主の池」に反射している。
 本当なら、今頃、桂と幸せになっていたのに。本当なら、桂の傍にいられたのに……。佐那は思った。
 しかし、強くかぶりを振ると、その考えを心の片隅へと追いやった。桂はもういないのだから。どれほど望んでも、還って来はしないのだから。
 ――いまだって、心は叫んでいるわ。全身全霊を込めて、あなたのことを愛しているって。誰にも負けないくらい深く、あなたを想っているって。過去も未来も、関係ないの。永遠だって、私には意味がないのだもの。……愛してる。
 愛してる。
 言葉では絶対に表現し切れないけれど、言葉にしなければ、心から想いがあふれて、苦しくてどうしようもなくなってしまう。胸が張り裂けそうで、辛くてどうしようもなくなってしまう。
 ――季節だけは移ろってゆくのね。でも、私だけはあの日から時刻が止まったままなの。あの、暑い大旱の夏の日から、私の恋は止まったまま。瞳を閉じれば、こんなに鮮やかにあなたの面影が浮かぶのに、ふれようと手をのばせば、幻影に過ぎなかったと思い知らされるだけ……。
 涙さえ流れなくなったわ。強くなるって、約束したけれど、守れそうにないの。あなたが傍にいないことを嘆いてばかりいるの。……ごめんなさい。あなたの好きな笑顔も忘れてしまったみたい。――ねえ、どうすればいい?
 どうすればいいの、桂……?
 「主の池」を包む沈黙をやぶるように、ザッと突然、大きな羽音がした。佐那は驚いて空を見上げた。
 何百何千という鳥が、佐那のいる丘へと集まってくる。桂が鳥寄せで集めていた頃のように、一斉に飛んで来る。
 「桂……?」
 かすかに指笛の音が聞こえたような気がした。桂が鳥寄せのときに吹いたように、甲高いが、何故か落ち着く独特の音が。
 「かつ……ら……。桂! どこにいるのよ!? いるのでしょう!? 桂!」
 佐那は大声で桂の名を呼びながら、彼の姿を探した。桂は死んでしまったのに、今ここに彼がいるような気がして……。
 「置いて行かないって……どこにも行かないって……、そう言ったじゃないの……。そう……言ったわ……、かつら……」
 がっくりと全身のちからが抜けたように、佐那は池のほとりに座り込んだ。
 なにも考えられなかった。何も考えたくなかった。桂のことを想えば想うほど、自分が生きていることまで呪わしく感じられてくる。
 空気は肌寒くなってきている。佐那の心も、秋の空気とともに冷えはじめていた。
 凍えてしまう。心も身体も、冷たい氷のように堅くなってしまう。想いも私の魂も、きっとなにも感じなくなってしまう。誰にも暖めてはもらえない、森の孤児(みなしご)のように、春にはたぶん、とけた雪の下から冷たい骸があらわれる。
 (佐那……)
 誰かが呼んでいる。低くて落ち着いた声で佐那を呼ぶ。遠く近く、名を呼び続ける。でも、きっと空耳だ。だって、私をこんなふうに呼ぶひとはいないもの。佐那はそう思った。こんなふうに優しく呼野は、桂以外には誰もいないもの。
 誰も……。

 ――佐那……

 はっきりと聞こえた。ここまではっきりと聞こえたのに、間違えるはずがない。
 佐那は顔をあげた。そして、池の水面に立つ愛しい者の姿を、大きく見開いた瞳にしっかりと映した。
 「桂……」
 佐那の瞳が、ふいに揺らいだ。涙をながすことすら忘れたと思っていたのに、とめどなく頬を伝う涙は、本物だった。
  (愛してる……)
 桂は静かに言った。
 (愛しているよ、佐那……。ずっと――、死んでしまった今も、また次に生まれ変わったとしても、ずっと佐那を愛している。生まれ変わる度、私達は出逢うよ……。何度だって、譬え、違うふたりになったとしても、必ず佐那を見付けてみせるよ……)
 桂の声は、耳でなく、直接心へと響いてきた。唇はかすかにしか動かない。しかし、佐那を愛しそうに見つめるその穏やかな瞳は、決して逸らされはしなかった。言葉は、唇からでなくても伝わる。彼の瞳は真実だった。彼の言葉は、彼が佐那を見つめ続ける限り、佐那の心へ恵みの雨の如く、直に伝わるのだ。佐那は、体中で彼の言葉を感じ、声さえたてずに泣き続けた。
 (約束が守れなかったことは、済まないと思っている……。でも、佐那はきっとひとりでも生きてゆける。佐那は強いんだよ、そのままでも充分に……。私は、佐那の強さにずいぶんと助けられてきた……。だから……、もう私がいないことで嘆くのは、終わりにしてほしい……。笑っていてほしいんだよ……)
 スッと桂は動き、佐那の傍にたたずむ。
 (私は……、後悔はしていない。何を犠牲にしても、佐那だけは守りたかった……。そして、守ることが出来た。自己満足に過ぎないだろうが、悔いは残っていないんだ……。だから、佐那。分かってほしい)
 桂の手が、佐那の頬にふれる。透き通る桂の身体。ああ、そうだ。桂はもう此の世のひとではないのだ――。
  (――よく聞いて、佐那。泣きたいときは、思いきり声をあげて泣けばいい。そのかわり、涙の雫の倍、笑ってほしい。辛いことを心の底に押し込めておく必要はないんだから。感情を殺してしまっては駄目だ)
 フワリと、桂はその腕で佐那を包み込んだ。不思議なことに、温もりが伝わってくる。冬にむかう大気の冷たさに、冷えきった佐那の身体を暖めるように、桂は優しく佐那を抱き締める……。
 (愛しているよ、佐那。これだけは忘れないで……。このさき何があっても、自分を見失わないで……。私は……、私の心だけは、いつも傍にいるから……)
 桂の唇が、軽くふれた気がした。
 (愛しているよ、佐那……。今も、これから先もずっと……。そう、時の終わりがくるまで……)
 次の瞬間、水の沫が空気にはじけるように、桂の姿は消えていた。温もりだけを残して……。
 「かつ……ら……?」
 佐那は桂の幻影を追った。しかし、どこにも彼がいたと言う形跡すら見当たらなかった。
 「幻……?」
 いや、幻などでは決してない。なぜなら、こんなにもはっきり、桂の温もりが残っているのだから。寒さなど、微塵も感じさせないほどに、はっきりと。

 ――この両腕は、決して強くはないけれど……

 佐那は胸に手を当てた。心の中まで、暖かい。いつだって、どこにいたって桂は、桂の心は佐那の傍にいる。佐那の心の中で、桂は生き続けている。
 「愛してる。私だって、あなたのことを愛してる……。いまも、これからさきも、ずっと……。時が終わりを告げるまでだって、ずっと……、ずっと愛してる……」
 ありったけの声で叫び続けるわ。あなたにこの想いが届くように。

 ――いつもあなたが微笑んでいられるように、
 いつもあなたが幸せでいられるように……

 佐那は涙をぬぐった。
 譬えいまの桂が、心の嘆きが見せる幻影だって構わない。私は、いま確かに桂の心と通じ合ったのよ。そして、私は彼の生命を得たの。
 私は、彼の分まで生き続けるわ。次に出逢ったとき、これから起こることを懐かしい思い出を語るように、笑って話せるように。どんなに辛いことがあっても、過去の出来事として、言葉に紡ぐことができるように。

 ――この世界を両腕に抱きとめて、必ず守るから……

 木々、風、太陽……。大地の強さと優しさを、心を込めて歌おう。ひと雫の雨がもたらす恵みを伝えよう。すべて桂が守ろうとしたものだもの。この世界の……、いいえ、この世界にあふれる生命の尊さを、語り伝えよう。
 幸せになりたいから、ここにいよう。
 幸せでいたいから、ここに、あなたの傍にいよう。譬え、死の暗闇が、ふたりを隔てても。

 定められた最期の時がくるまで、
 生き続けよう。
 それがあなたの望みならば、
 あなたがいなくても幸せになれる。
 いつでも微笑んでいたいから、
 ここにいよう。
 この両腕に、
 あなたの思い出を抱き締めて……。

 きらきらひかる秋の光。冴えた空気のなか、真直ぐに地上に届く陽射し。水面には、木々が散らした色とりどりの葉が、美しい模様を描き出している。
 ――私達が、遠い昔の「伝説」になっても、傍にいてあげるから……。
 佐那は微笑んだ。そして、桂の墓に向かった。
 「桂……」
 チチチ……と鳴きながら、小鳥が桂の墓石に留まった。
 「ここなら、鳥たちがあなたを訪ねてやって来るわ……。主も、帰って来たのよ。龍になってね……あなたの傍に……。私も――、ずっと一緒にいるわ……。ずうっと――。そう、きっと、死んでからも、何度生まれ変わっても――」
 明るい光が射し、紅葉した綺麗な葉が風に吹かれ、落ちてゆく様を照らした。
 「聞こえるかしら。村では、子供達の笑い声が戻って来たのよ……。もう、寂しくはないのよ。木々も葉の色を変えて、作物も実を付けたわ……。私達は生き延びることが出来たの……。桂が守ってくれたのよ……。だから、これからは私が守ってあげる。悲しまないわ……私。悲しんでいたら、弱くなってしまうもの。強くなるわ……。寂しくなんかないって、笑って言えるくらい、強く――」
 そして、冬がきて、春がきて、夏が過ぎ去り、また秋がきて――。
 五回目の春が来た時、隣の村が賑やかになった。約束通り、戻って来たのだ。
 「夢を……見ました。春の陽射しの中の、我らの村の夢を……。村の者は皆、同じ夢を見たと言います。そして、迷うことなく、故郷へ戻ることが出来ました――」
 隣村の者が語る。
 「――桂殿が、我らの手引きをしてくれたのかも知れませぬ。いえ、きっとそうでしょう。そうでなければ、誰一人欠けることなく、五年の歳月を経て、再び集まることなど出来ましょうや」
 はらはらと涙が零れ落ちる。
 「決して忘れませぬ。桂殿のことは、決して忘れませぬ。忘れられましょうや。あれほどまでに、他人のことを思って下さった方を、如何にして忘れられましょうや……」
 悲しみは、やがて薄れていくだろう。
 しかし、逝ってしまった者が、忘れられることはないであろう。何故なら、彼等は生きている者の心に「何か」を、確かに残したのだから。
 逝ってしまった者は、小さな物語を、生きている者の胸に刻み付けて、時を超えて生き続けてゆく――。
 幾つものいのちが消え、また生まれ……。
 季節を繰り返し……、繰り返し……。

2001.04.15 up


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