未知海 ――水面に映る――


――終章――


 これは、この村に残る伝説……。
 村長の後継者の若者と巫嫗の孫娘の悲恋とともに伝わる、「主の池」に住むという龍神の物語。佐那が住んでいた小さな家は、既に跡形もなくなっており、この物語が本当の出来事であったことを伝えるのは、「山の神」の祠近くに、ひっそりと寄り添うように建てられたふたつの墓標のみである。そこにはいつも、鳥の歌い声が響いていた。遠く……近く。軽やかに、楽しげに。伸びやかに、優しく、鳥は歌っていた。逝ってしまった人々を、慰めるかのように……。
 幾歳が過ぎたのだろうか。悲しい恋の物語が、伝説に変わってしまってから。しかし、村人の間で、ただの「昔話」としてでも語り継がれているのだ。彼等の物語は、終わってはいない。彼等は、人々の心のなかで、生き続けているのだ。
 「主の池」の静寂。穏やかな空気は、今も昔も変わらない。山々の緑は輝き、物語の大旱など、嘘の出来事のようであった。そう、あれからただの一度も、日照りなど、この郷で起こったことはなかった。「主の池」に住むという黄金の龍と、郷を守る「山の神」が、幸せな日々を約束していたのだ。
 春の日溜まりのなか、ひとりの青年が、「主の池」にやってきた。彼は周囲を見回し、誰もいないのを確認すると、ピーッと、鳥寄せの指笛を吹いた。
 ザザッ……と、羽音を立てて鳥が集まって来、そのうちの一羽は彼の手に止まった。
 「真杉(ますぎ)ーっ!」
 村のほうから少女が、「主の池」へ駆けて来た。どうやら、鳥寄せの指笛を聞き付けて来たようだ。彼の姿を見付けると、嬉しそうに手を大きく振った。
 「迦耶(かや)か……。そんなに急ぐと危ないぞ」
 真杉の傍へたどり着くと、迦耶は荒い呼吸を調えた。
 「だって、森へ入ってしまったら、何処にいるか探せないじゃない。池にいるうちに、真杉を引き留めておかなくちゃ」
 ふくれっ面で言う。でも、怒っているふうでは、決してなかった。
 「何ていう名の鳥? 地味な鳥ね」
 気を取り直して、迦耶は真杉が手に乗せている、くすんだ緑色の鳥の名を訊いた。鳥は迦耶がやって来ても、そのまま真杉の手の上でおとなしくしていた。
 「鶯だよ。あの綺麗な声で鳴く、鶯さ……」
 「鶯……」
 迦耶は繰り返した。
 「どうした?」
 迦耶が何か思い出そうとするような、そんな素振りをみせたので、真杉は訊ねた。
 「ううん……。何だか、随分以前にもこうして、真杉にこの鳥の名を訊いたことがあったような気がして……」
 目を上げ、真杉の瞳のなかに答えを求めるかのように、彼を見つめた。
 「気のせいかしら……」
 不思議そうな表情をした真杉の手から鶯が飛び立ち、「山の神」の祠の隣に立つ、墓標に止まった。そして、たどたどしく一声、鳴いた。
 「伝説……ね……」
 迦耶が呟いた。飛び立った鶯を目で追い、墓標を見つめるその目は、遠い昔の御伽話を映していた。悲しい恋の物語を。
 「伝説?」
 「うん……、どれだけの時が流れたのか、分からないくらい昔……。ううん、まだそんなに時は過ぎ去っていないと思うわ。ほら、あのふたつの墓の恋人たちのお話しよ」
 真杉は、迦耶の指差した墓標を見遣った。
 鳥たちの歌声が響く、最も静かな安らぎの得られる場所。この山の中の、広い池のほとりに、彼等は眠っている。
 「ああ、あの話か」
 真杉は思い出したように言った。
 「年若の女子(おなご)が好きそうな話だ」
 ぼそりと付け加えた。
 「まあ、そんなこと言って……。真杉は次の村長なんだから、このお話しを率先して伝えてゆかなければいけないのよ。そんなふうに思っていてはだめ」
 言った後、クスリと迦耶は笑った。
 「でもいいわ。私もあのお話しって、少し悲し過ぎると思うもの。結局その後、佐那は巫女として十余年生きて、ふとした病が元で死んでしまうんだから。『主の池』の近くで、ひとりぼっちで、桂だけを想って生きたのね。十年以上の長い年月を。――でもね、いつも思うの。周りが佐那のことをどう感じようと、佐那は幸せだったんだ、傍に誰もいないけれど、淋しくはなかったんだって」
 今度は、フワリと包み込むように笑った。
 「そう、思うの」
 物語の佐那は、きっとひとりじゃなかったの。桂がいつも傍にいて、淋しくなんかなかったのだから。
 淋しいときには、傍にいて。こんなにも、傍にいて。
 あなたがいれば、それだけで、暖かい。
 「迦耶は矛盾している」
 真杉は話を続ける迦耶を、愛しそうに見ながら言った。
 「悲しすぎると言っておきながら、笑いながら話す。悲しい物語ならば、悲痛な面持ちで話せばいいのに」
 真杉の言葉に、迦耶はハッとして自分の顔に手を当てた。
 「……どうしてかしら。いつもそうなのよ。この物語をするとき、いつも笑ってしまうの……。心の中では、とても悲しいと思っていても、やっぱり、笑っているの……」
 チャポン……と、池で鯉が跳ねた。その音に驚いて、ふたりは池を見遣った。
 波紋が、ほとりに海を思わせるほどに広がっていた。
 「真杉、あのね」
 迦耶は、しばらく池の波紋が消えてゆくのを見ていたが、いつもの穏やかな水面に戻ると、そう話しはじめた。
 「あのお話しに、この池の『主』が出てくるでしょう。龍になったっていう、大鯉が。海を渡って、龍門を登って……。『海』って、どんな風なんだろうって、思ったの。私たちは山の者だから、海なんて見たことないでしょう。海を一度でいいから、見てみたいな……なんて、思って……」
 迦耶はそう言うと、真杉の方へ目をやった。
 「海……か」
 真杉は空を見上げた。穏やかな春の陽射し。眩し過ぎもせず、頬を暖める。霞がかったような空は、少しくすんで、薄紫色に染まっていた。そして、真杉はその空をゆっくりと雲が流れていく様を見ていた。――いや、違う。真杉の目は、何かを追っていた。瞳には映らない、何かとても遠いものを。
 「――真杉は時々、遠い目をする」
 迦耶は、真杉の袖を掴んで、言った。
 「そうか?」
 「そうよ。空を見るときは、いつもそう。鳥になって、何処かへ飛んでゆきそうなんだもの――」
 迦耶を振り返る真杉の目は、まだ何かを追い続けていた。
 (何を見つめているの?)
 何をあなたは求めているの? 私はあなたの求めるものが何なのか、とても知りたい。私も同じものを、ともに求めていたいから。――あなたの傍にいるためのに。
 「天上……」
 迦耶は、呟くようにその言葉を紡いだ。
 「真杉は、天上に憧れているのね」
 どうして「天上」という言葉が、急に浮かんできたのか、全く分からない。鬱陶しい雨の、雲霧が俄に晴れるように、突然、その言葉が心に飛び込んできたのだ。
 「天上」――。いったい、どこで聞いたのだろうか。思い出せないけれど、とても懐かしく感じるのは何故? ともに目指そうとするのなら、これ以上ふさわしいものはきっと、ないからだろうか。それとも、太古からの人々の憧れが「天上」だからだろうか。――いや、違う。多分、それは真杉だから。
 真杉と出逢った時から、迦耶の心の中に「天上」という言葉が、知らないうちに刻み込まれていたのだ。出逢った瞬間、「この人だ」とあの時、そう思ったように、真杉と同様、迦耶にはとても大切なことなのだ。
 パシャリ……と、何匹かの鯉が、鰭で水面を叩いた。何かを感じているようだ。
 「――そうだよ」
 溜め息をひとつ吐いて、真杉は認めた。その目は迦耶を映していたが、まだ、遠くを見つめたままだった。そして、再び空へ視線を戻すと、続けた。
 「鳥になれたら、いいと思うよ――。翼があれば、何処へでもゆける。迦耶のゆきたい海へだって、簡単にね。でも……」
 真杉は迦耶を見た。いつになく、真剣な眼差しだった。
 「今は人の子に生まれてきて、良かったと思っているよ」
 迦耶は首を傾げた。長い髪が揺れる。
 真杉は、穏やかに笑った。
 「迦耶に逢えたから――。迦耶に逢えて良かった。迦耶を好きになって、良かった……。ずっと、一緒にいるよ。ずっと、迦耶の傍にいるよ。そして、これから先、どんなことがあっても、迦耶を守ってゆくよ……」
 その言葉に、迦耶の瞳が一瞬、パッと見開かれたと思うと、次の瞬間、大きく揺らいだ。そして、耐え切れなくなった涙の雫が、つうーっと、迦耶の頬を幾つも流れ落ちた。
 「迦耶……?」
 「分からない……。何故だか分からないけれど、涙が出るの……。ずうっと前から、あなたのその言葉を待っていた気がするの……私……。――私、弱くてもいいのね。強くならなくても、真杉が守ってくれるのね……」
 真杉は頷いた。それを、はっきりと見た迦耶は、俯き、左手で顔を覆った。右の手は、真杉の袖を掴んだままだった。その手が、小刻みに震える。離さない。決してこの手を離さない。何故なら、こうして巡り逢えたのだから。その奇跡だけでは、これから先、ふたりが離れることはないという保証は、ないのだから。共に歩んでゆけるように、決してこの手は離さない。あなたの傍にいたいから。
 ――想いがあふれだして、とまらない。
 「……迦耶、聞いて」
 真杉は、迦耶をそっと抱き寄せた。ふわりと、花の香りがした。
 「これから、何度生まれ変わっても、きっと私達は出逢うよ。そうしたら、私はまた、迦耶を守る。――これは約束だよ。迦耶と私の、時の終わりが来るまでの約束だ。悲しい思いは、もう二度とさせない。だから……」
 真杉は言いながら、迦耶の涙をそっと拭った。そうしながら、以前にもこうして迦耶を抱きしめていたことがあったように感じ、不思議な思いがした。迦耶の身体は春だというのにやけに冷たく、凍えているようだった。小さく嗚咽をする彼女は、陽のひかりに溶けかけた薄氷の脆さにも似て、今にも崩れてしまいそうに弱かった。
 (この両腕は、決して強くはないけれど)
 けれど、あなたを悲しませないように、守ることは出来る。この腕の中で、崩れてしまいそうに弱いあなたが、遠くばかりを見つめていた私を、受け止めてくれたのだから。鳥になれるはずはないとよく分かっているのに、やはり空を飛ぶことばかりを考えていた。何一つ、そう、いのちさえも大切におもっていなかった私は、しおれた花にも涙するようなあなたに出逢って、生きていることの重大さを知った。そのあなたのために、感謝の気持ちのすべてを、あなたを守ることに注ぎ込もう。あなたを悲しませることのないように、そして、あなたと共に生きてゆくために。
 「信じる……。信じていいのね……」
 迦耶は、真杉の着物の衽のあたりにそっと手を当て、俯きがちに言った。
 鼓動の音が伝わる。聞こえてくる。遠かったふたつの鼓動が、共鳴りを始める。春風が優しく包み込み、鳥の鳴き声が交ざり合って甘美な旋律を奏でた。とても安らぐような、穏やかな音楽を……。
 きらきらひかる池の水。春の柔らかな陽射しを受けて、覆い被さる大樹の葉を微かに照らす、揺らぐひかり。山桜がはらはらと花びらを散らし、池の水面に模様を描いた。――幸せとは、このようにひっそりとした時に、満ちてくるのだろうか。互いのぬくもりは、春の日の暖かさにも似て、安心して眠れる気がした。
 迦耶はうっとりと瞳を閉じた。ここなら何一つ、そう悪夢さえも恐れるものではない。本当に眠ってしまいそうだった。真杉の髪が、ほんの少し、迦耶の顔にかかる。それも鬱陶しくはなく、かえって安全な証拠のような気がした。
 ――これから何度生まれ変わっても……
 迦耶は目を開いた。ふと、ある考えが浮かんだのだ。
 「そうだ――。良いことがあるわ」
 迦耶は、涙の跡を拭い、目をあげて言った。視線が真杉とぶつかる。
 「今度生まれ変わる時は、鳥になりましょう。鳥になって、海でも粗の向こうでも、何処へでもゆきましょう。いつまでも、何処までも共に……」
 そうして……、最後は共に天上目指しましょう……。
 迦耶は微笑んだ。大切なのは、ふたりで生きてゆくことなのだから。真杉が真杉であって、迦耶が迦耶であるならば、どのような貌をとっていたとしても、そんなことはまるで関係はない。伝説でも、佐那が佐那であったために桂に惹かれたように、桂が桂であったからこそ、佐那が必要であったのだから。惹かれ合い、求め合う心は、ひとつのいのちにひとつずつ存在するということを、決して否定しはしない。昔も今も変わらず、「想い」は時などに流されはしないのだ。それでも……。
 穏やかに時は過ぎてゆく。泉の水が、あふれて小さな流れをつくるように、静かに、そして、優しく過ぎてゆく。

 ――もしも、願いが叶うのなら、何度でも生まれ変わりたい。そして……、幾度も幾度も、違うあなたを愛したい……――

 時が過ぎ、小さな物語は伝説に変わる。
 あたたかな、優しい「想い」が、人の心を打つのだ。
 そう、これは遠い昔の物語。
 大切な者を亡くしてしまった悲しみと、大切な者を守ろうとする強さを教える。

 池の鯉は、池の主。
 主のいる池の水は、決して涸れはしない。
 何故なら、主が水を守るからだ。
 雨の降らない時は、海を渡り、
 龍門を登って、龍になる。
 龍になって、雨を降らせるのだ。
 そして、今もなお――、
 主は池を守り続けている。
 だから、
 主の守る池は、決して涸れない――。

 人々は語り伝える。龍神となった、大鯉のことを。
 生涯、たったひとりの人を愛し続けた乙女のことを――。
 そして、己がいのちを捨ててまで、人々を守ろうとした若者のことを……。

 ――私は……――

 鳥の鳴き声と、子供達の笑い声があふれる場所。
 木漏れ日が緑に光るのは、朝露のせい?
 池の水は、徒な風が水面を波立たせ、陽射しを受けてきらきらと光る。
 これほどまでに美しい場所は、他にあるだろうか。総てが輝いている。総てが、精一杯に輝きを放っている。誰の心の中にも、何処かに残っている風景。太陽の下ではにぎやかに、月の下ではひそやかに。雨の降る日は書物を読み、雪の降る日は藁を編む。晴れた時には畑を耕し、星の降る夜は物語をする。豊作の年には神に感謝し、不作の年には次の年の豊作を願う。
 「生」の喜びをからだ全体で表現し、ささやかだけれど、暖かな日々を過ごしている。そして、それを祝福する自然……。
 いのちのきらめきを忘れない限り、山も川も、樹々も水も……、太陽までもが彼等を祝福し続けているのだ。
 時が流れ……、時代が過ぎ去っても、変わらない「想い」を宿らせながら――。

 私は今、
 生まれてきて良かったと、
 思っています。
 そう、とても良かったと……。

 私は今、
 こうして生きています。
 生きてあなたに語りかけています。
 私は、生まれてきたいと望んだから生まれ、
 生きたいから生き、
 そして、
 あなたにこうして巡り逢えたのです。

 これは単なる偶然と、
 あなたは思うかも知れません。
 けれども、私は違うと思っています。
 きっと、奇跡なのだと……。
 だって、そうでしょう。
 何億分の一の確率で、
 あなたにこうして巡り逢えたのですから。

 幾つもの偶然が重なり合って、
 奇跡となるのです。
 そして、それは幾つもの出逢いであり、
 喜びであるのです。
 その奇跡の中に、
 あなたとの出逢いがありました。
 私は、あなたに逢えて、
 本当に良かったと思っています。
 私はあなたに逢うために、
 生まれてきたのですね……。

 私は今、
 生まれてきて、本当に良かったと、
 思っています。
 生きているということが、
 とても嬉しいのです。
 すべてのものから生命の息吹を感じ、
 この世界を限り無く愛おしく思っています。

 私はあなたが好きです。
 今、生きて輝いているあなたが、
 大好きです。
 だから、
 そのままのあなたで、
 いつまでも輝いたままのあなたで、
 いて下さい。
 そのままの、素顔のままのあなたが、
 とても好きなのです。

 私は今、生きて此処にいます。
 此処に今、「私」という人間が、
 存在しているのです。
 そのことを知っていてくれる人が、
 少しでもこの世にいるということが、
 とても嬉しいのです。

 私は生まれてきて良かった……。
 あなたに逢えて良かった――。
 それから、あなたもそう思っていることを
 とても嬉しく思います。
 あなたを愛して初めて生命の大切さを知り、
 こうして今、私は「生きて」いるのです。
 遠くを見続けていた私を、
 あなたは支えてくれた。
 いつだって私の傍には、
 あなたがいてくれた……。
 傍にいる――だだそれだけで、
 あなたは私を守ってくれたのだから。
 だから、これからは私が、
 ずっと守ってゆくから――。
 あなただけを、見つめてゆくから……。

 他には何一つ、言葉が見付からない。
 だから、幾度も繰り返してしまう。
 ――私は生まれてきて良かった。
 あなたに逢えて良かった。
 世界でたったひとりのあなたを、
 愛することが出来て良かった……。





 ――佐那に出逢えるのなら、何度でも人の子に生まれ変わるよ……。そして、その度に佐那を愛するよ……。何度でも、そう、時の終わりが来るまで……――




(了)
2000.09.27 up


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