――第十二章 3――
――佐那……。
遠くに聞こえる声。その声に呼ばれ、佐那は顔を上げた。
「龍……」
水嵩が増えつつある「主の池」。そこの上空に浮かぶようにしていたのは、一匹の龍神であった。
「何故、龍が……」
名を呼んだのは、その龍神だということに気付き、佐那は不思議に思った。
「――何故……死ヲ望ム……。何故……、生キヨウト……シナイノダ……」
龍神は、ゆっくりと語り掛けた。
「……私は……、許嫁者を亡くしました……。彼は、私の大切な人……。そう、私の心の総てでした……。彼がいない今、私は生きていけません。支えてくれる彼がいなければ、私は歩いていけません。――私は弱いのです。彼の死を乗り越えていけるほど、強くないのです……」
風が吹き、雨は佐那の身体に当たり、熱を冷ましていく。
「桂ガイナケレバ……、佐那ハ生キテハイラレナイ……ノカ……? 何故……、桂ノ気持チヲ判ロウト……シナイ……」
気持ちを判ろうとしない……。佐那は判りたくなどないと思った。
「――皆ヲ助ケタイト……、桂ハ考エテイタ……。自分ガ死ンデモ、皆ハ生キ続ケテホシ……イト、思ッテイタ……。佐那……、今、佐那ガ思ッテイルコトト、同ジコト……ヲ、桂ハ思ッテイタノダ……。佐那ニダケハ、生キテイテ……ホシイ……ト、願ッテイタノ……ダ……」
龍神は、言葉に突っかかりながらも、ゆっくりと話した。
「でも……。でも、嫌なんだもの……。辛いのよ……、哀しいのよ……。ひとり残されてしまったのよ。ずっと傍にいたかったのに、遠くへ行ってしまったのよ……」
佐那は手をグッと握り締めた。頬に伝う涙を、雨が隠した。
「――村人達モ、佐那ニ生キテイテホシイト、思ッテイタ。皆、佐那ガ好キダカラ、生キテイテホシイト願ッタノダ……。ソシテ、佐那ハ生キテイル。今、佐那ハ生キテイルノダ……。ココデ佐那ガ命ヲ断ッタラ、村人達ハドウ思ウダロウカ。逝ッテシマッタ者ハ、還ッテコナイ……。生キテイル者ノコトヲ、考エ……ナサイ。皆ニ悲シイ思イヲ、サセタクナイ……ト、思ウノナラ……」
悲しい思いを、させたくないと、思うのなら……。
龍神の言葉は、何故か佐那の心にあたたかさを染み込ませてゆく。
「心の支えがないのに……。どうやって生きてゆけばいいの? ――きっと無理よ、……無理だわ」
「――佐那」
龍神は言った。
「―桂……ハ、村人ヲ一人デモ多ク助……ケヨウト、シテイタ……。大切ダカラ……、大切ナモノダカラ……命を捨テテマデ……、守ロウト……シタノダ……。佐那……。桂ガ守ロウトシテイタモノノ……ナカデ、一番……強ク、ソウ思ッタノハ、何ダカ判ル……カ……?」
佐那はかぶりを振った。
「――笑顔ダ」
「笑顔……?」
佐那は繰り返した。
「――ソウ、佐那ノ……笑顔ダ……」
雨足が激しくなる。「主の池」の水嵩も、つれて増えていく。
「――生キ……テ、笑ッテ……イテホシイ……。哀シミ……ハ、イヅレ薄レテ……イクノダカラ……」
「……忘れろと……言うの? 桂のことを……」
「――ソウデハ……ナイ……。忘レル必要ハナイ。ムシロ、桂ノ為ナラバ、覚エテイルホウガ良イノダ……。タダ……、生キテイテホシイトイウ、桂ノ最後ノ願イヲ、叶エテホシイノダ……」
龍神は、すうっと池へ降り、水の中に身体を沈めた。
「――ヤット……、戻ッテキタ……。私ノ……池ヘ……」
龍神が、そう呟くのが聞こえた。
「――強ク……ナルノダ……、佐那……」
水嵩が増していく池の底へと、龍の身体が消えていく。
――戻ッテキタ……。私ノ……池ヘ……。
(私の……池……?)
ハッとした。
「待って……! もしかして……、もしかして貴方は……」
此処は「主の池」。
池の鯉は、池の主。主のいる池の水は、涸れない。何故なら、主が水を守るからだ。
「主っ! 主なのねっ! 『龍門』を登って、龍になったのね……!」
叫ぶ佐那に応えるかのように、大きな落雷があった。
海を渡って、龍門を登り……。
鯉は龍神となった。
正しく、伝説の通りにである。
「ごめんね……」
佐那は、龍神を追うように池を覗き込み、言った。
「ごめん……、ごめんなさい……。主のこと……、考えていなかった。桂がいなくなってしまったのに、私もいなくなったら、主の面倒を見る人が、誰もいなくなってしまうもの……。ごめんね……、強く……なるから。どんなことでも一人で乗り越えて行けるくらい、強く――」
雨は三日三晩降り続いた。そして、その雨には不思議な力があったのか、多くの作物が息を吹き返した。何事もなかったかのように、山々も緑に染まり、蝉も大樹の幹に止まっては鳴いている。
でも、逝ってしまった者だけは、生き返ることがなかった。
哀しんだ村人たちは、「山の神」の祠近くに、桂の墓を建てた。
そんな当たり前の日々か戻って来たある日、村長と巫嫗を前に、佐那がある決意を語った。
「正気か……、佐那」
村長は言った。
「正気です。もう、決めたのです」
佐那はきっぱりと言い切った。
「巫女になると……、申すのか」
「はい」
「生涯、誰とも夫婦にはならないと、申すのか」
「はい」
「まだ、そなたは若いではないか。祖母の跡を継ごうと思うておるのか。その様なことは、考えずとも良いのじゃ。誰か、人柄の良い者と夫婦になり、幸せになるべきだと、儂は思うぞ」
村長の言葉に、佐那は沈黙した。そして、何も言わぬ祖母の顔を見た。
「巫嫗殿は夫を亡くし、その後、長らく空席だった巫女になったのじゃ。佐那はまだ、婚姻さえ結んでおらぬ。確かに、桂と夫婦になるはずではあったがのう……。桂亡き今、誰とでも夫婦になれるのじゃ。誰でも良い、夫婦になって幸せに……」
「いいえ、私は誰とも夫婦にはなりません」
村長の科白を遮るように、佐那は言った。
「夫婦になるのは、桂以外考えられないもの。もし、誰か別の人と夫婦になっても、私は鯉の世話をしに、池へ行くでしょう。あそこには、桂が眠っているのよ。どんなに幸せだとしても、桂のことは忘れない。いえ、忘れたくはないの。夫以外の人を好いたまま、過ごしていくことになるのよ。それでは、見せ掛けの幸せだわ。第一、夫になった人を不幸にすることになるのですもの」
村長は、巫嫗を見た。巫嫗は、何も言わなかった。
ただ、遠い昔を懐かしむように、目を閉じたまま、沈黙を保っていた。
「私を可哀想な娘だと、思わないでください。今のままで『幸せだ』と言えるくらい、強くなってみせます。これから幾年(いくとせ)も、ひとりで生きてゆくのですもの、きっと、誰よりも強く――」
秋がやって来て、収穫が終わった頃、「山の神」の祠近くに、小さな家が建てられた。こぢんまりとしたその家には、暖かな灯が点された。
「これで良かったのじゃ……。私の跡を継いでくれる者が出来たのじゃ。そう、きっとこれで……」
山々の緑が、朱く染まっていくのを見ながら、巫嫗は言った。
2001.04.15 up