――第十二章 2――
「喜んで……」
瞼が、内側から熱くなる。
「喜んで、あなたの妻になります……」
佐那は微笑んだつもりだった。しかし、急にとめどない涙があふれだし、頬を流れ落ちた。――予感が、する。何か、素敵なことが起こるのではないかという、予感がする。あなたのたったひとつの心に出逢える、そんな気がする。
あなたのことを、好きになってもいいですか? あなたの傍にいてもいいですか? あなたのその瞳が、悲しみで曇らないように、あなたの肩が寂しさで震えないように。いつもそう、願っているの。あなたが私の気持ちに気付くことが永遠にないのだとしても、あなたの望むことは何だってするわ。初めて言葉を交したあの日のように、私が傍らにいることを、笑って許してくれるのならば。
――あなたが、好き。
「……いやだわ、どうしてしまったのかしら。涙が……、止まらないわ」
両腕に抱えた花に顔を埋めて、佐那は困ったようにつぶやいた。それから、涙を指でぬぐうと桂を見上げた。彼の笑顔を見付けた。
「良かった……、やっと終わった……」
桂はへなへなと気が抜けたように、その場に座り込んだ。余程、緊張していたのだろう。大きくひとつ、息をした。
「違うわよ、桂」
佐那は桂の傍に寄り添うように座り、抱えた花を膝に置いた。
「終わるのではなくて、これから始まるのだわ」
桂は顔を上げた。
「これから私は、ずっとあなたの傍にいて、笑い合って暮らすの。子供を産んで育てて、家族が増えてゆくほど、それだけたくさんの幸せになるの。そして、時が過ぎて、幸せなまま年老いてゆくの。何処までも私は、あなたの後を追ってゆくわ。ずっとずっと、あなたの傍にいるわ……」
佐那はそう言って花がほころぶように笑った。
「――そうだね……」
桂は、まぶしそうに佐那を見遣りながら、そう答えた。
「さあ、村へ戻りましょう。あなたの姿が見えないせいで、朝から村中大騒ぎよ」
佐那はそう言うと、鯉の餌が入っていた籠に両腕をふさいでいる花を入れた。深めの籠に、いっぱいの花。飾り気のない籠が、一気に華やいだ。
「素敵……。花筐(はながたみ)だわ」
その美しさに目を細める。そして、それを両手で持ち、立ち上がった。
――予感が、する。きっと素敵なことが起きるっていう、予感が。あなたに出逢った春の日も、そんな気がして目覚めたの。何も知らなかった幼い日、こんな時が来るなんて、思ってもみなかった。寂しい日々を通り抜け、あなたは私を見付けてくれた。両手にいっぱいの花と、幸せをあなたはくれたわ。だから私はこれからずっと、あなたの傍にいて、あなたのくれた幸せを、もっともっと大きくしてゆくの。みんなが幸せになれるように、願いを込めて……。誰もひとりで悲しむことのないように。
手を伸ばせば、すぐ傍にいつもあなたがいた。それが当たり前になっていたのに、気が付かなかった。でも、今は違う。傍にいないと、不安。傍にいられないと、寂しい。あなたは、私の心の総てを攫っていった。寂しさも悲しみも、心の底に眠る醜さも総てまとめて「私」として認めてくれた。
あなたの傍にいるだけで、心があたたかくなる。
「桂……、私、謝らなければならないことがあるの」
佐那は立ち上がった桂に、そう切り出した。
「何を?」
桂は着物をパッと軽く払うと、佐那を見遣った。
「……私、本当はあなたのこと、心配なんかしていなかったの。だって、あなたは何だって出来る人なんですもの。村の人たちが大騒ぎしていても、何とも思わなかったの。桂なら絶対に大丈夫だって、そう思い込んでいたのよ。それなのに、主の池にも桂がいないって判ると、急に不安になったわ。あなたの身の危険を案じるっていうのじゃなくて、あなたが傍にいないっていうことが不安だったの。私が……、私自身が不安だったの。あなたのことを心配に思っていたわけじゃないの。私は、薄情だわ。こんな時まで、自分のことしか考えられないのよ……」
私のために、桂が苦労して贈り物を用意している時に、私は村人と共に、彼を捜すことすらしようとしなかった……。
佐那はうつむいて、花に顔を埋めた。どんな表情をしているのか、桂に判らないように。――私の心は、醜い。きっと今は、その醜さで歪んだ顔をしているから……。
「謝ることはないよ」
桂が言うのが聞こえた。
「私の身の危険を案じていなかったということを、悔いることはない。現にこうして、私は何事もなく戻って来た。もう、過ぎてしまったことなんだ。それに、それだけ佐那は私のことを信頼していてくれたという証拠じゃないか。――顔を上げて、佐那」
そう言われても、佐那はすぐに顔を上げることが出来なかった。
「大丈夫。佐那を嫌いになったりしない。そんなことで揺らぐような気持ちは持っていない。――私は佐那のことが好きだ。だから自信を持って、佐那」
ゆっくりと、佐那は顔を上げた。桂は、その佐那の様子を、目を逸らすことなく、見つめていた。きっと、そう、それだけが彼の心の真実を伝えることの出来る術なのだ。
――そう、桂っていう人は、あたたかな人なの。
桂は微笑んだ。そうして、かつてそうしたことがあったように、佐那へと手を差し伸べた。緑に光る風が、北へ向かって駆け抜けた。ふたりを包み込むように、優しく頬を撫でながら、春の訪れを告げていった。
――心の総てを攫っていったの。寂しさも悲しみも、心の底に眠る醜さまでも、総てまとめて「私」として認めてくれた。だから私はあなたの傍にいて、あなたを想っていたいの。ただ、それだけなの。それだけで、私はいつも幸せに微笑んでいられる。
佐那は桂を見上げて、その手を取ろうとおずおずと手を伸ばした。途端、花籠が均衡を失って地面に落ちた。バラバラに散らばる、花々。
「ああ、気付かなくて、ごめん」
驚いて口に手を当てる佐那に、桂はしゃがみ込んで花を拾い集めはじめた。――いつか、こんなことがあったと思い出しながら。
「村までは、私が運ぶよ。――さあ、ゆこう」
立ち上がると桂はそう言って、もう一度佐那に手を伸べた。
――寂しい時には、何も言わずに手を差し伸べてくれる、そんな人なの。
佐那は、微笑んだ。そして、今度は迷わず伸べられた桂の手を取った。佐那は幸せだった。心が通じ合ったのだ。誰よりも傍にいたい人と。
「こんなこと、前にもあったよね」
佐那は言った。
「ああ、あったよ。何だか私達は、幾度も同じことを繰り返しているみたいだな」
桂は照れたように笑う。佐那からは、丁度逆光になって、その表情は良く見えなかった。でも、今は瞳を閉じていても、互いがどんな表情をしているかが、手に取るように分かった。息が掛かるほどに傍にいるせいかも知れない。
心の声を、聞いた気がした。
――いつかのように、私が傍らに寄り添うことを笑って許してくれるのであれば、あなたの望むことは、何だってするわ。もう、迷わない。ひとりで寂しさを嘆きはしない。不安も何もかも、消えて、快い風になる。北へ向かう風に。そうして、常世の春を告げて歩くの。誰にでも、必ず訪れると。
手を引かれ、歩きながら強く感じた。春の日の風を、光を。雪解けのせせらぎの軽やかさを、体中に響かせて堪能した。鳥の歌声、木の葉のざわめき。総てが好ましいものに思える。緑にとまる光の雫に、目を細める。陽があたると消える朝露の儚さも、愛しい。
幸せとは、いったいどういうものなのだろうか。形がないだけに形容し難い。でも、佐那は幸せだった。「幸せ」と、言い切ることが出来た。ひとりではないから。
村にふたり連れ立って戻ると、驚いた村人たちに取り囲まれた。桂は照れくさそうに、経過報告し、状況を把握した村人たちは、ホッとしつつも、この忙しい時期に、今度は祝い事の準備に取り掛からなければならんと、ボヤいた。それでも皆、嬉しそうだった。
――傍らに寄り添うなら、あなたがいい。もう、何処にもゆかない。
郷には春が、溢れていた。
――桂……――
フッと、佐那の意識が遠のいた。そして、そのまま地面に倒れ込んだ。
(見える――。見えるわ……)
夢を見ているのだろうか。滝が佐那の目に、はっきりと映った。
(滝……。なんて大きな滝……)
起き上がる力もなく、佐那は横になったまま、夢を見続けた。
(主……?)
鯉が、一匹の鯉が、その滝を登ろうと、懸命になっていた。
勢い良く流れ落ちる水を溯ろうとしているその鯉は、幾度も幾度も滝壷に落ちては、また立ち向かっていった。
(龍門……)
その滝の名が、ぼんやりと佐那の脳裏に浮かんだ時である。
ザッと飛沫を上げ、鯉が滝を一気に登り切った。
何度目の挑戦かは判らない。しかし、鯉の身体は疲れているはずだ。それなのに……、鯉は龍門を登り切ったのだ。それに変わりはない。
立ち上る黒雲。天を裂く雷電。
そして、それらを背後に宙に浮かぶ、龍神……。
(あの滝……。あの滝は、やはり「龍門」だったんだわ……)
佐那は気を失った。
陽射しが強く照り付ける。静寂の夏は、今、終わりを告げようとしていた。
「雲じゃ……」
雨乞いの焔が巻き上げる火の粉越しに、ぽっかりと空に浮かんだ雲を、村人のひとりが見付けた。
「空を見ていれば、雨の予兆は判ります。これほど晴れ渡っていれば、簡単です」
桂は言った。
「どのような予兆なのですか?」
切羽詰まったように、村人は訊く。
「雲霓(うんげい)ですよ」
くすり……と笑って、桂は言う。
「空を見上げて、雲や虹を探すのです。――予兆は、小さなものです。しかし、その小さな予兆は、後に大きなものをもたらすのです」
小さな予兆――。
桂の見せた最後の微笑みと共に、その言が思い出される。
「雲霓じゃ! 皆、雲霓が出たのじゃ!」
一筋の虹も見える。
「雨じゃっ! 雨が降って来るぞ!」
黒い雲が西の空から押し寄せて来る。西――。そう、西の方角から、雨雲が流れて来たのだ。
見る間に空は雲で埋まり、ポツリポツリと雨の雫が落ちて来た。
「雨じゃっ! 雨が降って来たぞーっ!」
神子達も、ほっとした様子で降り注ぐ恵みの雨を見ていた。
村人たちは、家から各々、器を持ち出し、地面に並べて雨を受けた。
雨足は強まるばかりで、大地はみるみる生気を取り戻した。そして、儀式の焔が完全に消えた頃、神子達は何も言わずに立ち去り、それに気付いた村長がふと、空を見上げた時である。
「龍……」
気を失った佐那の頬にも、雨は降り注いでいた。
雨の冷たさで目を醒ました佐那は、唇に触れた雫で雨が降って来たことに気付き、起き上がった。そして、ぼんやりとした頭で、生き返っていく大地を確認した。
「ああ……」
雨が……降っている。
佐那は、自分達が生き延びたことを、漠然と悟った。
生きて――いる。
冷たい雨の雫が、天から降り注いでいる。大地はそれを、ひたすら受け続けている。
佐那はその様を、はっきりとしてくる頭で、しっかりと感じた。
生命の匂いが、雨の匂いと共に立ち込める。
生きている。私は生きているのだ――。
「ああ……」
溜め息に似た声。
佐那はよろよろと立ち上がり、池のほとりまで激しくなりつつある雨の中を歩き、その場にへなへなと座り込んだ。
「桂……」
涙があふれでる。生き延びることの出来た喜びとは違った感情が、彼女の心で蠢き始めたのだ。
「どうして……。どうして私は死ななかったの……? どうして私は生きているの? どうして……、どうして……?」
泣き崩れた。声を押し殺し、強くなる雨の中、自分の生を嘆き悲しんだ。
桂が死に、手の届かない所へ行ってしまった。自分が生きていることが、辛かった。心の中は、ぽっかりと穴が空いたように空虚で、寂しさだけが募った。自分が死んでも、桂にだけは生きていてほしかった。
佐那は雨の中、泣き続けた。
2001.04.15 up