未知海 ――水面に映る――


――第十二章 1――


 佐那は、何日こうしているのか分からなかった。鯉のいなくなった「主の池」を見詰めなが等、何も飲まず、何も食べずに、ただ、過ぎていく時間を大樹の根元に座り、待っていた。
 (此の侭死んだなら、桂に逢えるかしら……)
 佐那は、そう思っていた。来るべきを待ちながら――。
 池の水は腐り始め、飲める状態ではない。鯉も他の魚も、もう「主の池」にはいない上、桂が死んでからは、鳥すらも飛んで来ることはなくなり、山は静まり返っている。
 (主……、どうしているかな……?)
 生きている者は自分だけかと、錯覚をするほどに、何もいないのだ。主のことが、自然に思い出された。
 楽しかった頃が、自然に思い出されるのだ。
 目を閉じて、思い出すのはいつも彼のこと。ほんの少し前の、春のあの日を、佐那は思い出していた。
 その朝、桂はいつもより早く目覚めた。自分の室の戸を開けて、美しい朝明けの空を見上げ、ゆっくりと満足そうに微笑みを浮かべる。朝露に濡れた草木を眺めながら、大きく深呼吸をする。朝の空気は、芽吹きたての若葉の匂いがした。
 桂は急いで身繕いを済ませると、誰にも気付かれないように足音を忍ばせ、屋敷を出ていった。


 「ごめんなさい、本当に知らないんです」
 困惑気味に佐那は答える。これで何回目だろう。
 「私、主に会いにゆく時間なんです。本当にごめんなさい」
 手にした籠の中には、鯉の餌が入っている。それを抱えているのにも関わらず、村人は佐那を呼び止めては質問攻めにした。朝から桂の姿が見えないと、村中が大騒ぎである。佐那も桂には会っていないのだが、こうも立て続けに桂の所在を訊ねられては、少々うんざりしてくる。桂はしっかりした若者なので、そんなに血眼になって探すようなことをしなくても良い気がするのだが、誰にも行方を知らせずに彼がいなくなるなど今迄になかったことなので、皆、慌てているのだろう。しかし、本当に何も知らない佐那にとっては、大迷惑である。
 「桂って、意外と信用ないのかしら?」
 情報が何も得られず、がっかりした様子で去ってゆく村人の後ろ姿に、ふうっと、息を吐く。
 十九にもなって、こんなに村人たちに心配をかけている。しかも、ただ朝から姿が見えないというだけの理由で、である。春だし、朝の風が心地よいので散歩に出ているだけかも知れないのに、と佐那は至って暢気に構えていた。佐那は全面的に桂を信頼しているので、心配などこれっぽっちもしていない。だが、あんまり周りが騒ぎ立てるので、佐那もだんだん不安になってきた。
 「何処にいったのかしら……」
 佐那は籠を抱え直すと、池へ向かって歩き始めた。
 よく晴れ渡った空に、佐那は眩しそうに目を細めた。鳥が何羽か飛ぶのを見て、溜め息を吐く。桂の気配があれば、鳥の様子が少し違うはずなのに、微塵も感じさせない。勝手気侭に飛び去ってゆく。
 桂は丘にはいないようだ、と佐那は思い、とにかく鯉に餌をやるために池へと急ぐ。途中、伸びた枝に佐那の着物の袖が掠め、芽吹いたばかりの若葉が、ぷんと瑞々しい匂いを放った。朝露に濡れた草の、ひいやりした感触が、佐那は好きだ。何もかもが新しくなったようで、何か素敵なことが起こりそうな予感がして、春の朝がとても好きだった。
 「遅くなって、ごめんね」
 祠に挨拶を済ませると、佐那は池のほとりに歩み寄り、そっと声を掛ける。鯉は佐那の姿が水面に映ると、おどけたように次々と飛び上がってみせた。佐那はホッとして、籠から餌をつかむと、パッと池へ投げた。次々と浮かび上がっては、無心に餌を食べている鯉を見て、佐那は穏やかな気分になった。
 池の水面は、動き回る鯉が細波立たせ、幾つもの波紋が描かれた。波紋と波紋がぶつかりあって、細波は消える。――餌を総べて投げ終えた佐那は、ほとりに膝をついて、池を覗き込んだ。
 「ねえ、主」
 佐那はついと寄って来た黄金の鯉に、声を掛けた。
 「桂のことは……、知ってるよね。いつも、一緒にここへ来るものね」
 多くの鯉が、桂の名を出した途端、佐那の近くに集まった。桂は鳥だけではなく、この池の鯉にも気に入られているようである。
 「桂がね、今朝から行方が知れないの。それで、ここには今日、桂は来ていないか知りたいのよ。どうかしら」
 佐那がそう訊ねると、鯉は急に銘々勝手に泳ぎ去ってしまった。
 「そう……、来てはいないのね」
 がっかりして、佐那はつぶやいた。「何処へ行ってしまったのかしら」。
 不安になる。心が細波立つ。池の水面のように。――佐那は、そのまま池のほとりに座り込んだ。
 「私、本当のことを言うと、今まで桂のことを心配なんて、していなかったの。だってそうでしょう? 桂はいつだって、他人のことばかり気に掛けているような、何でも出来る人なんだもの。桂なら、どんな時でも大丈夫だろうって、そんなふうに思っていたの。信じきっていたのよ。完全無欠な人なんているわけないのに。……私は馬鹿だわ。本当に桂が村の何処にもいなくなってしまっていたのに、気にもしていなかったなんて……。私、どうしよう……」
 パシャン……と、「主」が水面を尾鰭で叩いた。くるくるとそのまま、佐那の近くを泳ぎ回る。
 「私は、桂が好き」
 真直ぐに主を見据えたまま、佐那ははっきりとそう告げた。
 「好きなのに、馬鹿みたいだわ。どうしてもっと早くに不安にならなかったのかしら。傍にいないことが、寂しいって感じなかったのかしら」
 桂の傍にいたいと思った。春だというのに、佐那は肌寒さを感じた。芽吹き始めた若葉の間から漏れる陽光も、暖かくは感じなかった。大好きな春の、大好きな朝なのに、佐那はそれを楽しむことが出来なかった。
 「どうしてしまったのかしら。いつも何か素敵なことが起こりそうな、そんな予感がするのに、どうして今日は何も感じないの? 不安でいっぱいなのよ。桂のことで心がいっぱいなのよ。――傍にいたいのよ。桂が傍にいてくれるだけで、真冬でもあたたかいと思えるわ。寂しい時には、何も言わずに手を差し伸べてくれる、そんな人なの。共に歩んでゆける人なのよ」
 初めて言葉を交したのは、十歳の頃だ。その日のことを良く覚えている。「主」に会いに来た時に、桂がここにいて、彼がせっかく集めた鳥を、佐那は驚かせて逃がしてしまったのだ。それを桂は、笑って許してくれた。ひどくぎこちなかったけれども、佐那はとてもその微笑みが嬉しかった。「私に笑いかけてくれているんだ」と、そう思っただけで、とても幸せになれた。それから……地面にばらまいてしまった鯉の餌を拾い集めて、籠に入れて渡してくれた。その籠を受け取った時の、あの瞬間から、きっとこの恋は始まったのだ。
 背が高くて、姿勢が良いので、何処からでもすぐに見付けることが出来た。いつだって、他人のことばかり気にして、村中を歩き回っていた。転んで怪我をした子供の手当てとか、急に熱を出して寝込んでしまった人の代わりに、畑仕事を手伝ったりとか、いつもいつも、忙しく働いていた。――そして、息抜きのふとした瞬間には、眩しそうに空を見上げていた。いつも、いつも……。焦がれるように、切なそうに見上げていた。彼は、空に何を見たのだろう。未知なるものへの、憧れなのだろうか。判らないが、桂は鳥になりたかったのかも知れない。そんなふうに佐那は思っていた。
 ひとりになると、桂はうつむいて何か考え込んでいた。「主の池」で会うと、大抵がそうであった。あの日も……。彼の父親の狭倭部が死んだ次の日も、桂はここに来て、伏し目勝ちにじっと池を見つめていた。
 (ああ、そうだった……)
 佐那は顔を両手で被った。
 桂は決して強いわけではないのだ。何をいったい、私は見ていたのだろう。あの時、桂は泣いていた。彼だって、悲しみを知っている、人の子なのだ。楽しい時には笑い、腹立たしい時には怒り、悲しい時には泣き、そして、寂しい時には誰かに傍らにいてほしいと望むだろう。
 あの日の、桂の見せた涙。それから、小さく震えた肩。すべてが錯覚だと思えるのだろうか。それなのに、佐那は桂は誰よりも強いと思っていた。桂だって、人の子だということを忘れていた。彼だって、弱いのだ。悲しい時もあれば、寂しい時もある、人の子なのだ。不安にもなるし、恐れることもある。そう、愛することも。――忘れない。今度こそ絶対に忘れないわ、あの時のあなたの震えた肩を、涙を。私の心のすべてを、あなたを愛することに捧げて、私のいのちをあなたのために使っても構わない。二度とあなたの肩が悲しみで震えないように、瞳が涙で曇らないように、そのためなら私は何だってするわ。譬え、あなたが私のことを愛してはくれなくても、誰か他の人を愛したとしても、それだって構わない。傍にいることを許してくれるのなら、初めて言葉を交した日のように笑って許してくれるのなら、嬉しいのよ。ただ、あなたの傍にいて、あなたを想っていたいの。それだけで私は、いつも幸せに微笑んでいられるわ。ほかのことは何も望まない。傍にいられるだけで、誰よりも私は幸せになれる。
 ――あなたが……、好き。
 さや……と、風が吹いた。風は梢や草を揺らし、春の梢は普段よりも柔らかな音を立てた。揺らいだ葉はあたたかな陽射しを受けて、きらきらと光った。風は池の水面も波立たせ、幾つもの波紋をつくった。
 佐那は、顔を上げた。
 (予感が、する)
 春は好き。春の朝は、もっと好き。雨が降っていたとしても、風が強くても、何か素敵なことが、起こりそうな予感がするから。雲雀が歌い、燕が空を舞う春の、あたたかな陽射しが好き。あなたの傍にいるみたいに、あたたかいから。山々は冬の装いを脱ぎ捨てて、鮮やかな色彩に装いを変えるわ。野には花が咲き乱れ、蝶が舞い遊ぶの。優しい南風が、その中を静かに、そして軽やかに渡ってゆくのよ。春の匂いを運びながら、春が来たことを告げて歩くの。地に生えている草に、木々の若葉に、朝露が降りて、それが陽のひかりに輝くのもいいわ。道を歩くとひいやりとして、とても清々しい気分になるから。そうなの、何もかもが新しくなったようで、胸がどきどきするの。何か、素敵なことがありそうな、そんな気がして、そんな予感がして――。
 そう、予感が……するの。
 桂に逢える気がした。何処かに行ってしまった桂が、佐那に逢いに来る、そんな気がした。通り過ぎた風が、鳥の歌声を微かに運んできたせいかも知れない。でも、そんなことはどうでも良かった。無事な桂の姿が見られるなら、それで充分だった。ただ、逢いたかった。逢って、元気なことが確かめられれば、その後どうなっても構わなかった。
 佐那は籠を抱えて立ち上がった。居ても立ってもいられなくなったのだ。心が、急かされる。早くしなければ、擦れ違ってしまう気がした。擦れ違って、もう二度と逢えない気がした。大切な、掛け替えのない人に。
 佐那は、主への挨拶もそこそこに、駆け出した。木々の青葉が、目に眩しく感じられる。春風が、優しく頬を撫でてゆく。柔らかな色とりどりの花々。鳥の歌声が響き渡る森の、中を通り過ぎてゆく小さな蝶。朝露は既に消えてしまっていたが、瑞々しい香りは朝のそのままで、何もかもが、新しく感じられる。
 ――予感が、する。
 この丘を下りれば、桂に逢えるのではないかという予感が、する。ただの予感なのに、どうしてだか心が騒ぐ。不安なざわめきではなく、むしろ待ち望んでいたことが、漸く叶えられる瞬間のときめきに似ていた。

 ――予感が……、する。

 佐那は立ち止まった。丘を下り切ったわけでもないのに、立ち止まって目を大きく見開いて、前を見据えていた。村から真直ぐ、丘への道は1本だけである。昔から、村人たちが幾度も通って、踏み固まって出来た道。森の中、木々が枝を伸ばし、トンネルのように道に覆いを作っている。広葉樹の芽吹いたばかりの若葉の間から、木漏れ日が緑に染まって射している。その向こうから、背の高い男が一人、両腕に抱えきれないほどのたくさんの花を持って、ゆっくりと丘を登って来た。
 長い髪を綺麗に後ろに束ね、あたらしい常磐色の着物を着込んでいた。
 「桂……」
 佐那はつぶやくようにその名を呼んだ。桂は佐那に気付いたが、花を抱えているせいで、歩みを速めることが出来ない様子で、佐那は桂に向かって歩き出した。
 「間に合って良かった」
 桂は花の向こう側で、微笑みながら言った。佐那には、その言葉の意味が皆目理解出来なかったが、無事な桂の姿を見て、涙がにじんだ。
 「無事で良かった……」
 うつむいて、そっと目頭を押さえる。思わず零してしまった佐那の本音に、桂は申し訳なさそうに、目を伏せた。
 「……もっと早くに戻って来られるはずだったんだ。けれど、両手に抱え切れないくらいの花を摘むとなると、随分と時間がかかってしまった」
 そう言うと、桂は佐那に目を向けた。
 「心配を掛けて済まない。でも、どうしても朝露に濡れた開いたばかりの花が摘みたかったんだ。両手にいっぱい。だから、明け方に屋敷を抜け出して、皆が起き出す頃には戻っているつもりだった。遅くても、佐那より先に主の池にいるはずだったんだ」
 桂は、佐那に花を差し出した。色とりどりの花々。とても綺麗だ。摘んだばかりの花は、甘い香りを周囲に振り撒いていた。
 「私……に?」
 驚いたように佐那は桂を見遣る。桂はうなずいた。
 「佐那にあげる。これは佐那のために摘んだ花だから、だから全部、佐那のものなんだ。受け取って欲しい」
 佐那は手を伸ばして、桂から花を受け取った。桂が両手に抱え切れないほどだった量の花に、佐那は埋もれてしまっていた。その花に埋もれた向こう側で、佐那はとても嬉しそうに微笑んだ。
 「ありがとう」
 佐那は目を閉じて、花の甘美な香りをかいだ。佐那のために、と桂が言ってくれたその気持ちが嬉しかった。実際、これだけの量の花を摘むとなると、かなり骨の折れる仕事である。明け方から掛かり切りになったとしても、何の不思議もない。野に咲く、花々の色の淡さに、その優しさに佐那は感動した。
 「私の妻になってくれませんか」
 桂が、そう訊ねるのが聞こえた。桂の言葉に、佐那はその黒い目を大きく見開いて彼を見た。桂の表情は堅く、真剣な眼差しで佐那の応えを待っていた。

2001.04.15 up


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