――第十一章――
漣(さざなみ)が揺れる海――。
その海の上に、魚が浮いていた。揺れる水面に身をまかせ、きらきら光る腹を見せていた。
鯉である。
海面に浮かぶのは、「池の主」の大鯉であった。月夜に照らされ、その輝く鱗は、信じられないほどの明るい光を放っていた。
――何じゃ、何じゃ……。
声がした。
――何じゃ、何じゃ……。
声は幾つも増え続ける。
――何じゃ、何じゃ……。
――何じゃ、何じゃ……。
ふと、別の声が現われた。
――鯉だ、この魚は……。
――鯉じゃと……? 此れは鯉じゃと申すのか……。
――そうじゃ、そうじゃ……。
――何故に海におるのじゃ。鯉は里の魚じゃろう……。
――実……、何故に此の様な所におるのじゃ……。
波に揺られ続ける鯉には、その声は聞こえない。既に息絶えているのだ。
――龍に……、なろうとしたのだ……。
ポツリ、とその声は答えた。
――龍じゃと……?
――御主と同じ、龍になろうとしておったのか、この鯉は……?
不思議そうな響き。水面にざわめきが広がる。
――そうだ……、我と同じ龍神になろうとしておったのだ……。
龍神はそう言うと、ゆっくりとその長い身体を伸ばした。
――この鯉は「池の主」と呼ばれておってな……。長きに渡って池の水を守っておったのだ。それが、我はこの鯉のおった山の神と諍いを起こしてな……。我は彼の地に雨を降らせなかったのだ。その所為で、いろいろなものが死んでいった。鳥も、魚も、獣も、……人も死んだ。だからこの鯉は海を渡り、「龍門」を登って龍になろうとしたのだ……。伝説の通りにな……。
龍神は、天空を見上げた。月と星が、その闇に浮かび上がっている。
(我はこの天の黒雲を住処に、千年以上の時を過ごさねばならぬ……)
大地に身体を休めることなく、生きてゆかねばならない。それが、山の神が龍神に科した罰であった。
「許さぬ……。吾れは決して御主を許さぬ。何故いのちを思わない、何故、吾れの心が判らない。能力の如何が何だと言うのだ。力の使い方などというものは、各々の立場によって変わる。吾れは、御主のような力の使い方は出来ぬ立場におるのだ。驕り高ぶるのは、いい加減にしておくが良い。御主のような輩は、決して許さぬ……」
低い、押し殺した声で、若者の姿をした山の神は言い、大きな地震を起こすと、龍神の池を跡形もなく埋めてしまった。
「桂を返せ……! 魚のいのち、鳥のいのち……。人のいのち、桂のいのちを返せ! 彼等がいったい何をしたと言うのだ。何もしていないではないか。何故いのちの重さを思わない……! 何故、心の痛みを判ろうとしない……!」
嘆きが、大地を走る。
山の神はそう言い放つと、以前と同じように忽然と姿を消した。その場に残された龍神は、その時初めて、山の神があの時に言った言霊の本当の意味を理解したのだった。
大地は、空を支え続ける。空だけでは無い。昔、海でさえもが大地がなくなれば形を取っていられないと、そう聞いたことがある。大地は、総てのものを支える、大いなる力であった。それを忘れていた己が恥ずかしかった。
休む事なく支え続ける山の神。自分は気の向くままに動き、疲れれば沼で身体を休めた。――能力の差などは、比べられるものではなかったのだ、所詮。それなのに、己はただ、驕っているだけであった。
何故、そこまでの意地を張ってしまったのだろう。
――息絶えてまでか……?
ざわめきが訊ねた。
――そうだ……。
龍神は答えた。
――信じられぬのう……。そこまでして、何になるというのじゃ……。
――守るためだ。
龍神は、きっぱりと言い切った。
――大切なものを、守るためなのだ。判るか……? 海神 (わだつみ)よ……。
大勢の海神達は、一様に首を傾げた。
ざわざわと、漣は俄に大きく揺れ始めた。
――我は目が覚めた。のう、海神よ。我らのように水を司るものは、少し傲慢になり過ぎておったかも知れぬ。水が無ければ生きてゆけぬものばかりが、此の世には溢れておるというのに、我は水を与えず、海神はその水を刃と化し、生けるものを苦しめる……。
――龍神よ、何を申したいのじゃ……。
龍神は、海面に浮いて、波に揺られている鯉に目をやった。
――この鯉を、我と同じ龍にしてやりたいのだ……。
静まり返った。
月が高く昇り、海を照らした。満ちている。満ちて輝いている月だ。
――罪滅ぼしのつもりか……? 龍神よ……。
ククク……と押し殺したような笑い声。何十、何百と重なって大きな音になる。しかし、それは決して嘲笑ではなかった。
――そうかも知れぬ。でも、何もしないよりかはずっと良い。己の自己満足に過ぎないとしてもな……。
――全くじゃ……。
クスクスと笑い続けながらも、そう肯定をした海神達は、フッと寄り固まり、ひとりの神になった。
――引き潮じゃ……! 黄河までは吾れが運ぼうぞ。だかのう、良いか龍神よ……、後のことは、一切吾れは関知せぬ。そこまでは面倒見切れぬぞ……。
海神は、鯉の死骸を潮の流れに乗せ、運び始めた。
――それで充分だ……。忝ないぞ……。
龍神は、潮の流れを変える海神に呟いた。
時の流れには、逆らえぬ。
水の流れにも、逆らえぬ。
時も水も、神の領域。
勝手に変えてはならぬ定め。
かるが故に、祈るのだ。
無力な我らに出来るのは、
ただひとつ、それのみ故に……。
祈りの声が、龍神の耳に響く。
村人の願い、それは胸を揺さぶる。
神子達が村のことを聞き付けて、無償で執り行う、雨乞いの儀式。
返して下さい……。返して下さい。穏やかな日々を。あの人の笑顔を。密やかに暮らしていた我々には、欲しいものなど他にはありません。ただひとつの願いを、お聞き届け下さい。どうか、笑い合って暮らせる日々を、我々に返して下さい……。
――我は、取り返しのつかないことをしてしまった……。
後悔が胸を締め付ける。
何故、いのちを思わなかったのだろう。何故、心の痛みを判ろうとしなかったのだろう。
ほんの些細なことなのに、幾つのいのちを奪ってしまったのか。いのちの女神でもないのに、どれだけのいのちを、その手で摘んで来たのだろう。
そもそものきっかけは、洪水、旱魃。それを諌めに来た、山の神との諍い。
張った虚勢と、投げ付けた呪いの言霊。
嗚呼、許されるものならば……。
ザザ……ッ。
潮が満ちる。
満ちて、大河に流れ込む。
流れ込む潮の勢いは、海を目指し、大陸を駆け抜けてきた濁流をも、いとも容易く従え、溯ってしまうほどに、凄まじかった。
ゴオオオ……
水がうねる。その音が、周りに谺する。
ゴオオオオ……
ゴオオオ……
しかし、不思議とそれは恐ろしさを秘めたものではなかった。
――龍神よ、着いたぞ……。
滝だ。滝の目の前まで、海神は鯉を運んでくれたのだ。
――済まぬ、海神よ。恩は忘れぬぞ……。
――何の。吾れも少しは気が晴れたぞ……。では、また何時か会おうぞ。さらばじゃ、龍神よ……。
ザブンと、海神は水に潜った。潮の勢いに乗って、一息に河までも溯って来たのだ。河は、海神の領域ではない。そのため、急いで去る必要があったのだ。
龍神は、海神の去った後、静かに考えていた。
きっかけは、諍い、呪いの言霊。――いや、違う。自分の驕りだ。自分よりも能力が劣るというだけで、軽んじ、顧みなかった自分の所為だ。
「吾れは許さない。御主を許すものか……」
憎々しげに、山の神が吐いた言葉。温厚な山の神が、あのような表情を見せるとは、想像つかなかった。凛とした、凄絶な美しさを持つ、若者の姿となった山の神。大きな力を使う時にのみ、見せる姿で現われて、地震を起こすと捨て台詞を残して消えた。
何も、判ろうとしなかった己が、酷く醜く見えた。
(ああ、そうなのか……)
山の神の守る郷の、人々の笑顔の行方。木漏れ日の大地に揺れる様。暖かく、そして、優しい穏やかな空間。人は、大地の恵みに感謝することを知っている。自分を庇護してくれるものを、知っている。山の神は、その感謝の言葉に励まされていたのだ。孤独に、天空を支え続ける日々を、耐えるために。
それが、龍神には羨ましかったのだ。羨ましく、また、妬ましかった。醜い感情。しかし、神である己がそんなふうに感じていることを、認めたくはなかった。認める訳にはいかなかった。そのまま無視し続けた感情が、何時しか心の奥底で凝り固まってしまった。しこりのようになって、気になり、いらついて、どうしようもなくなった時に、山の神が現われたのだ。
努力など、決してしよう等とは思いもしなかったのを棚に上げて、山の神に呪いを掛けた。ただ羨むだけで、慈しむことも、守ることもしなかった。与えたのは、水を刃に変えての、恐怖のみ。畏怖の念が欲しいのではなくて。どうすれば、笑顔で感謝の言葉を告げてくれるのか、判らなかっただけ。――愚かだったのは、考えなしだった自分自身だ。その愚かさに、山の神が下した罰。千年以上の月日を、身体を休めることなく、空に漂い続けなければならない、辛い罰。
――許されるものなら……。
疾うに許されている。罪は背負わねばならない。ならば……。
龍神は、流れの留まっている所に浮かぶ、鯉に目を向けた。
――さあ、鯉よ……。滝を登って龍となるが良い……。
俄に、黒雲が現われ、空を覆った。
――今一度、其方にいのちを与えようぞ……。
凄まじい稲妻と雷鳴が駆け抜け、大鯉の身体を撃った。
しかし、鯉は動かなかった。
いのちの女神が、黄泉への路を開く前に、衝撃を与えれば、再びいのちは甦ることを龍神は知っていた。黄泉の路が開いた気配がなかったので、女神は目零しをしてくれたのだろう。龍神は待ち続けた。――いのちが還ってくるのを。
ゆっくり、ゆっくり、いのちは甦る。どれだけの時が過ぎたのか、鰓が痙攣を始め、次に尾鰭が動き出した。
――鯉よ……。
龍神は呼び掛けた。罪滅ぼしのつもりではなくて、ただ、望みを叶えてやりたいだけ。蛇も鯉も龍にはなれる。だが、ただの龍であって、神ではない。水を司り、雨を降らせることも出来るが、力は龍神の比較にはならない。何よりも、龍には龍神はない、寿命がある。たった一度、雨を降らせただけで力尽き、死んだ龍もいる。それでも、龍神は、大鯉を龍にしてやりたかった。あのまま海に浮かぶより、無駄死ににはならないと思ったからだ。
――鯉よ。今、其方は、龍門におる。この滝を登り切れば、其方は我と同じ、龍となるのだ。さあ、主よ。滝を登り切るが良い……。そして、伝説の通りに龍となり、大切な者達を守るが良い……。
我に出来るのは、ここまでだ。後は其方次第だ……。
そう言い残すと、龍神は黒雲と共に消えていった。
鯉は、「龍門の滝」を見上げた。長く激しく流れ落ちる滝。登り切れるのかは、判らない。しかし、登り切らねばならないのだ。大切なものを守る、そのために。
鯉は、滝に向かった。
2001.04.15 up