――第十章――
冥(くら)い闇の宙に、目覚めると桂は浮かんでいた。
何も見えない、何も聞こえない深い闇だ。桂は茫然とその中に、ただ浮かび上がっているだけだった。――いったい此処は、何処なのだろう。現実なのか、それとも、夢でも見ているのだろうか。桂は周りを見回した。何処までも一筋の光すら見えない空間が、広がっているだけだ。動きたくとも、どう動けば良いのかまるで見当が付かない。この闇から抜け出そうにも、その方法が分からない。桂は途方に暮れた。
シャン、シャン、シャン……
シャン、シャン、シャン……
かすかに、鈴の音が響いている。どうやら腰にぶら下げているらしく、足を地につける度に、その振動で鈴が揺れ、音を立てるようである。その鈴の音は籠ったような感じがして、それが土鈴独特の響きだと、はっきり分かった。それは、桂の方へとだんだん近付いて来る。暗闇の静けさの中に、それは鮮やかな色を持って響き渡る。懐かしく、そして、悲しい響きがした。
「あなたは……」
姿を現わした鈴の音の主に桂は驚き、やっとそう一言、声を発した。
「久し振り……、という程も経ってはおらぬかの、桂」
出し抜けにそう、その老人は言った。
背の低い、痩せこけた老人。浅黒い肌に、焦げ茶色の粗い織り方の麻の着物を、細めの荒縄一本で着込み、前と同じく竹で編んだ笠をかぶっていた。顎髭も長い眉毛も、真っ白だ。ただ、以前と違うのは、腰にぶら下げた瓢箪と巾着が、ふたつの土鈴に変わっていたということだ。少し曲がった木の杖も、何もかもそのままの姿で、彼の老人は再び桂の前に現われたのだった。
「ここは何処なのですか? ……そうだ、村はどうなっているのですか!? 佐那は……、村人達はどうしているのですか!? お教え下さい!」
桂は、立て続けに質問を老人に投げ掛けた。老人は悲痛な面持ちで桂を見ていた。そして、しばらくの沈黙ののちに、口を開いた。
「……いのちだけはお捨てになりまするなと、申したであろうが、桂」
山の神は、ふうっと息を吐いた。
「ここは、『死』の冥闇だの。そなたは迷うておる。普通ならば黄泉への道が、自ずと開けるものなのだがの……、そなたの父母が下ったように。そなたは此の世への思いが強過ぎるのだの。強過ぎて……、魂が黄泉へゆくのを、知らず拒んだんだの」
「死の……」
桂はがっくりと、座り込んだ。そうだ、確かに自分は死んだのだった。俄に死の間際に思った感情が、桂に蘇った。
(佐那……)
桂は顔を両手で被った。
(ごめん……な……)
守ることの出来なかった約束。いつでも傍にいて、幸せを築いてゆく約束。
(――私はね、桂。子供をたくさん産んで育てて、あなたのくれた幸せをもっともっと増やしてゆくの。それが私の望みなの。両手にまめをつくって働いて……、それでも、あなたが傍にいてくれるのなら、私は誰よりも幸せになれるわ……)
――あなたが傍にいてくれるのなら……。
微笑んだ佐那の面影が、かすんで遠ざかった。
「桂」
山の神は、手に持った杖で、地をトンと突いた。腰にぶら下がっている土鈴が、チリリ……と、かすかに鈍い音を立てる。すると、何もない闇の、その地に村の様子が映し出された。まるで、静かな水面に世界が映るようだった。
「相変わらず雨が降らんのだがの……、何とかして共に生き延びようとしておるの。彼等は強いの……」
桂は顔を上げ、山の神を見た。
「だが、それも、そなたのことがあったからだ。そなたの死があったからこそ、彼等は死を思い、そなたが何を願ったかを考えた。そして、答えに行き着いた」
「願い……」
「そうだ、願いだの」
地に、佐那が池のほとりに座り込んでいる姿が映し出されていた。彼女は、死んだ魚をその白い手で掬い上げては、土に埋めるということを繰り返していた。
「生きたかった……。そう願ったのだろうの。そなた、佐那と共に生きることを望んだのだろう。そう望んで……、それでも叶わなかった。そうではなかろうの」
世界中の総てが、こんなにも好ましく思えるのは何故だろう。木々も草花も、鳥も動物達も、そして、池に住む魚も……。朝露が緑に輝くのから、雪の結晶のひとつひとつに至るまで、この世界に存在しているものの総てが、堪らなく素晴らしいと思えるのは、何故だろう。桂は山の神の言葉を聞きながら、ぼんやりと考え続けた。
「……そなたは、佐那や村人のことを、いや、生きているもののことを常に一番に考えていた。生きているもの達の中で、共に笑いあって生きてゆくこと、それがそなたの望みだと、そう思ったのだの。違うか……、桂」
「いいえ……」
青い空に、心がこれほど惹かれるのは、何故だろう。鳥のように、大空を駆け巡ることを望むのは、何故だろう。
「想いは……、伝わったのかの、桂」
山の神は、佐那の様子を見守っていた。彼女は魚の骸の総てを埋め終え、木陰に入ったところであった。
(かつら……)
俄に、佐那の表情が歪んだ。涙が幾筋も頬を伝う。
(傍にいると言ったわ。何処にもゆかないと、私にそう約束したわ。なのに、どうして逝ってしまったの? 桂がいて、みんながいて……、笑いあって暮らせれば、ほかには何もいらないのに……)
佐那は泣いた。泣き続けた。望みは、たったひとつだけ。それが永遠に叶わぬのを、嘆き続ける。
――この世界が、好き。この世界にあふれる、総てのものが好き。私はこの世界にあふれる様々なものに囲まれて生きてゆくの。木々や草、池や川。木の葉のざわめきや虫の音、小川のせせらぎの音。やわらかな春の陽射しに、凛とした月の光。季節を彩る色とりどりの花々。鳥の歌や子供達の笑い声が、森に響き渡るの。そして……、あなたがいてくれるのなら、これ以上の幸福は望まないわ……。
手で注意深く掬った水でも、いつの間にか指の隙間から零れ落ちてしまう。いのちの有るものは、いつか必ず逝ってしまう。でも、それだからこそ、せいいっぱいに輝くのかも知れない。空がいつも青いとは限らない。太陽が昇らない日が来ないとも限らない。桂は思った。それでも、私はこの世界が此の上もなく素晴らしいものに感じる。瞳に映る総てを心に焼きつけて、何一つ忘れたくない。もっと大きな世界が見たい。いや、違う。もっとこの世界をよく見てみたい。
(ああ、そうか……)
――鳥になりたかったのは、空を飛びたかったからじゃない。
「山の神……、お聞きしても、よろしいですか?」
桂は、いつもの冷静な声に戻って、訊いた。
「私は、間違っていたのでしょうか」
山の神はその問いに、眉を少しひそめて考えた。そして、言った。
「さあのう……。そなたが間違っていたかというのは、儂には答えられんの。それよりも、そなたは完全になりたかったのかの。完全な人間に、なることを目指していたのかの。いつも儂は、そなたに危惧を覚えていた。無論、それ以上に、信頼もしていたのだがの」
完全な人間。それは有り得るのだろうか。桂はその逆の問い掛けに、肩透かしを食らわされた形になり、黙り込んでしまった。
「……そなたは、殆ど完璧ともいえる容姿と知識、そして、心を持っておる。頭の回転も速いしな。しかし、そなたには持っているはずの心を解放する、感情が乏しかった。佐那に出逢って、それは随分と変わったがの。そうすると、今度はますます、完全に近付くことになる。完全にならなければならなくなる。――人は成長を望むからの。でも、儂は思うぞ。そなたら人間が思う完全とは、儂から見れば不完全だの。そなたがいい例だ。そなたは他人のために生き過ぎた。もうほんの僅か、自分のためにも生きておれば、誰も傷付けることなどなかったのではないかの……」
黙り込んだ桂を、じっと見つめながら、山の神は静かに語り続けた。それは暗に、桂が死んだことによる人々の心の傷を指していた。何人もが、自分の所為で桂のいのちが縮まったのだと、嘆いただろう。人のために生き過ぎた桂を思い、涙を流したのだろう。
「しかし、どれもこれも皆、過去のことだの。過ぎ去ってしまったことだ。もう今更悔やんだとて、遅すぎるの。ただ、これだけは言えるの」
山の神は、打って変わった強い声で言い切った。
「過去に振り回されるな。過去を過去のものとして見るのだ。そしても繰り返してはいけない。そなたには、未来がある」
桂はその言葉に、山の神を凝視した。
「未来……? 私に……?」
訝しげに問い掛ける。
「そうだ、未来はそなたにもある」
でも、桂はもう生きてはいないのだ。桂は山の神の言葉の意味が分からず、戸惑いが隠し切れなかった。
「そなたには、これから先、ふたつの道がある。ひとつは黄泉へゆくこと。そして、もうひとつは此の世に残ること。どちらを選ぶかは、そなた次第だがの」
桂は、山の神に与えられた選択肢に、少しだけ考え、訊ねた。
「此の世に残るなどということが、出来るのでしょうか」
山の神は頷いた。
「ただし、ひとの姿で残ることは出来ない。何か……、そう、気のようなものが漂っていると考えれば良い。それに……、此の世に残ると黄泉にゆくよりも、生まれ変わり難うなる。生まれ変わることがないかも知れない。それでも、そなたは此の世に残ることを選ぶのかの?」
山の神は、桂の心を察したように言う。桂はそれを受けて、微笑んだ。
「私に、迷うことなどありません」
世界は……、どうしてこんなに美しいのだろう。木の葉のさざめき、小川のせせらぎ。春の咲き乱れる花々が甘い香りを運び、夏の陽射しは大地に緑の影を落とした。秋の星空が、手を伸ばせば届きそうなくらいに近付いたこと。冬になると、雪が一面に降り積もり、凍った指先を温めるひとの手が、此の上もなく優しく思えたこと。折々の季節が見せる色、音、かたちには、その時にしか見られない一瞬の輝きが内包されている。
そう、その時、一瞬だけの輝き。今年の春が、来年の春と同じかというと、そうではない。この夏に咲いていた花が、次の夏にまた同じ花を咲かせるとは限らない。現に、竹は六十年に一度しか、あの小さな花を咲かせることはないではないか。魚が水の流れを逆らって泳ぐのは何故だろう。鳥が空を翔るのは何故だろう。生きる為に、生き抜く為に彼等は生活の場を水に、空に求めたのだ。せいいっぱい生きているから。世の中の総てのものは、いつもせいいっぱいに生きているから。だから、世界は美しく輝き続けている。
「この世界に残ることが可能ならば、そして、何か私に出来ることがあるならば、私は喜んで此の世に残ります。その他は関係ありません」
この世界に何か出来ることがあるとすれば、どんなことでも喜んでするだろう。この両腕は決して強くはないけれど、手を伸ばして、どんなにささやかなことでも、立ち止まっているよりはいい、何かをしよう。手を拱いていてはいけない。この世界はいのちがあふれているから。この世界には、あなたがいるから。数多のいのちが、最も美しい輝きを見せる、そんな所だから。この両腕を拡げて、世界中を抱き締めよう。そしていつか、誰もが綺麗だと思う、世界を作ろう。
誰もが愛しいと思う、世界を作ろう。
「関係ないとな……。そこまで此の世に思い入れが強ければ、此の世も受け入れてくれるだろうて。……そなたは幸い樹木の名を戴いておる。土か植物のいずれかが迎えてくれるだろう」
山の神は、地に映し出された世界を元の闇に戻すと、桂にくるりと背を向け、もう一度トンと杖で突いた。するとパアッと、強烈な光が地を駆け抜け、その光に瞑った目を桂が再び開いた頃には、仄暗く光る一筋の道が遠くまで繋がっていた。
「これは、この闇からそなたを導いてくれる道。決して振り返らずに、そして、立ち止まらずにゆきなされ。この道は、そなたの心の望む所へ繋がっておる。望みを道が感じ取って、導くのだ。実に望んでいるのなら、必ず、此の世まで導いてくれるだろうの」
山の神は、彼方を指差した。遥か彼方の、一点を指し示した。
「山の神……」
「そなたにそう呼ばれるのは好まんの。爺で結構だの」
桂の声に振り返る。山の神は不思議と穏やかな顔をしていた。
「ならば、御老体……、そう呼ばせていただきます。感謝致します。言葉では表わし切れませんが、御礼を言わせてください。本当に、有り難うございます」
深々と頭を下げた。それ以外に、桂には感謝の気持ちを示す方法を見つけられなかったのだ。
「礼など無用だの。そなたの未来は、そなた自身で開くもの。儂はそれに少しちからを貸したまでのこと。そのことはお忘れなさるな。心を強く持ちなされ。この闇から抜けた瞬間、恐らくそなたは此の世の初めの光に出逢うだろうの。だがの、ひるんではいけない。構わずに進み続けなされ。これ以上、儂は助言できんがの……、悪く思いなさるな」
山の神は、大きくひとつ、息を吐いた。穏やかだった顔に、急に疲労が色濃く示された。
「桂、そなた、後悔はしないのか?」
問い掛けられた桂は、正面から山の神に向き直った。そうして、きっぱりとした口調で、こう語り始めた。
「昔……、私の父が存命中のことですから、そんなふうに言ってしまえるほど、時は過ぎていませんが、私の父が話してくれたことがあります。いのちには必ず意味があると。此の世にあふれるいのちには、成すべき何かのために、生を享けたのだと」
忘れられない記憶。譬え千年が過ぎようと、色褪せない思い出。
「そして、正しいことを伝える者になれと言い、自分が何のために生まれてきたのかを見つけろとも言いました。父の狭倭部は、きっといのちの大切さとあたたかさを示すために生まれてきたのだと思います。それが伝えたくて、きっと私の腕で死んだのだと思います。だから私は……、自分のいのちを犠牲にしてでも、少しでも多くのいのちを助けたかったのです。誰も傷付けたくなどなかった。でも、結果としては村人達の心に深い傷を負わせてしまいました。その罪を償う気持ちからではありませんが、私は少しでも皆の力になりたいのです。ただ、それだけなのです。後悔など、決して致しません」
歌をうたおう。此の世の総べての美しさを、言葉に紡ぎ、調べにのせよう。世界にあふれるいのちの尊さを、語り伝えよう。
たとえば、この世界の暗闇がはてしなく続くのだとしても、希望を捨てずに歩いてゆこう。進んでゆけば、いつかきっと何処かへ辿り着くのだから。もしも、それがあたたかな光があふれる場所ならば、どんなに嬉しいだろう。……未来は誰にも見えなくて、それでも多分、平等にあるのだと思う。今日生まれて明日死ぬ者もあれば、齢百歳を重ねてもなお生きる者もある。見えないからこそ、希望が持てる未来。暗闇であっても、まばゆい光があふれていても、我々の目には何も映らない。だが、どちらであっても、立ち止まりさえしなければ、刻々と変わってゆく。未来は自分の手で変えることが出来るのだ。
「良う判った。そなたに対しては愚問だったようだの。お引き止めして悪かった。さあ、ゆきなされ。――いつか、そう、いつかまた機会があれば会うだろうの、桂。その時を楽しみにしておるぞい」
山の神はそう言うと、ポンと軽く桂の背を叩いた。桂は、山の神に背を押される形になって、初めて光の道の上に立った。
「ええ、いつか必ず、お会い出来ると信じています、御老体」
桂は笑いながらそう返すと、道を進み始めた。一歩一歩を確かめるように踏み締め、言われた通りに、振り返ることなく。
この道は……、何処までも続いている道で、きっと、望む世界へと繋がっている。真直ぐに進んでゆこう。それがもし、私の存在の総てが消え去る瞬間に繋がっていたとしても、何一つ恐れることはない。ただ、歩いてゆこう。陽射しの暖かさ、ひとの手の温もりの感じ取れる世界へ。この世界には、いのちがあふれているから。この世界には、あなたがいるから。あなたが私を受け止めてくれたように、私はこの世界中を抱き締めよう。
――後悔はしないのか?
桂は急に、立ち止まって過ぎた道を振り返って見たいという衝動に駆られた。しかし、山の神との約束を思い出し、立ち止まることさえせずに歩み続けた。
私のしようとしていることは、ただの自己満足に過ぎないだろう。そのことについて嘆く人も多いだろう。でも、信じよう。今の私は、暗闇にひとり歩き続けるだけで、いつもそこにあったはずの暖かい手を求めている。私はこの思いは誰にもさせたくない。いつでも差し伸べられるる手になろう。それが伝わるように努力しよう。伝わると信じて。
先の見えない道の行方を、桂は見遣った。
――後悔など、しない。
たとえば、春の陽射し輝く野辺に出て、両手にいっぱいの花を摘んだあの日、その花を受け取った佐那の見せたような笑顔を、皆がいつでも浮かべられるように。たとえば、冬の凍てつく寒さの中で触れた、ひとの心の温もりを、誰もがいつも持っていられるように。今でも瞳閉じれば、村人達の顔が浮かんでくる。今までは気付かなかったが、私はいつだって誰かに支えられていた。本当に独りになったことなど、一度だってなかった。皆がいてくれたから、私はいつも幸せだったと心から言える。そのためにも少しでも誰かの支えになろう。すこしでも、思いを受け止めよう。
桂は自分の身体が軽くなるのを感じた。歩み続けようとする足許から、まばゆい光が弾け、天から、そして、四方からも桂を包み込むようにあふれだした。
――私は、空になろう……。
目を開けていられないほどの強烈な光にもひるまず、桂はその中へと進んでいった。そして、光に溶け込み、彼の姿は消え去った。
彼のその最後の瞬間は、穏やかな笑顔であった。
2001.04.15 up