忘れられない、光景がある。
その光景は、何故だかとても綺麗で、心に鮮やかに刻み込まれた。
雨の日の公園。その誰もいない公園の大きな樹の下で、彼女は舞うような足取りで歩いていた。いや、立っていただけなのかも知れない。でも、彼女は雨の中、確かにそこにいた。傘もささずに、薄衣一枚で、そこだけ異国の風景を切り取ってきたような錯覚を覚えるほどに、新鮮で鮮烈な光景だった。
彼女――狭山花苗(さやま かなえ)との出会いは、そんなふうだった。
それは、三月の末、桜が咲きはじめた頃、その花を散らすように降る雨の日の出来事だった。周子(しゅうこ)は二十一歳になったばかりの大学生で、何もかもが霞んで見えていた……。その花の色も、周りの景色も、総てが遠く、何処かしら白々しく映っていた。
「色がまずいんじゃないかな」
サークルの部長の鳥居隆宏(とりい たかひろ)が、周子のキャンバスをのぞき込んで言った。
「斐川(ひかわ)さんは、水彩向きの色づかいだね。でも、これは油絵なんだし、もっと明確にしたほうがいいと思うよ」
自分が油彩向きでないことは、初めから分かっていたが、そうはっきりと指摘されると、いささか胸に突き刺さる。
「御忠告ありがとう。でも、私は私のやり方で描くわ。全部描きあがってから、意見を聞かせてちょうだい」
四月が来れば、ふたりとも四年になる。それなのに、春休みの最中にまで絵を描きに来ているのは、随分と酔狂な話しだ。
「鳥居さんは、いったい何を描いているの? いつまでたっても下塗りばかりしていて……。もうひと月になるんじゃない?」
「いい絵が浮かばないんだよ。そのうちに、あっと言わせるものができる。ま、油彩だし、のんびりやるさ」
鳥居はそう言うと、再び自分のキャンバスに向かって、色を塗り始めた。本当に、彼は長いこと下塗りに時間を費やしている。――周子は思った。
いつもの鳥居の描き方は、もっと荒々しい画面づくりになる。周子の初めて見た鳥居の絵は、モノトーンのコンテ画だったのだが、まるで、画面にいのちがあるように見えた。深い森の、木々が、唸りを上げていると、そう感じた。――建築科に所属する彼の、設計の緻密な線引きが、彼にそんな画面を描かせるのだろうと、ある友人は言った。周子にはよく理解できなかったが、このごろの鳥居の絵は、何かが変わってきていた。疑問を感じるせいか、近頃ずっと、鳥居を目で追っている自分を見付け、周子は慌てて目を彼から逸らした。
(何やってるんだろう、私)
コンコン……と、軽く拳で頭を叩く。
「あ……。雨……」
ポツリ……と、天から降ってきた雫に、気紛れで出てきていた岩瀬真理(いわせ まり)が呟く。
「雨ですって?」
周子はガタンと、椅子を鳴らせて立ち上がった。そのままパレットを放り出し、窓辺へ駆け寄る。
「今日は薄曇りだったから、持つと思ったんだけどなあ」
真理はどうやら、傘を持ってきていないらしい。彼女の言う通り、空は薄曇り。しかし、雨は止む気配がなく、降り続ける。
「真理……。私、急用を思い出したの。悪いけど、片付けといてくれない?」
絵の具で汚れたエプロンをはずすと、周子はバッグを掴み、部室を飛び出した。
「ちょっ……、待ってよ、周子! 傘、持ってんの!?」
「持ってる! 今度おごるから、お願いね!」
真理が周子を追うように、廊下へ顔を出して叫ぶ。それに対して、振り返って周子は大声で答えた。
「洗濯物でも、表に干したままだったんじゃないの?」
ひょいと廊下をのぞき込んで、呑気に鳥居が言う。当然のことながら、周子の姿はもうとっくに廊下から消えていた。
「傘持ってる人が? 第一、周子は自宅通学よ」
部室にひっこみながら、真理は言う。ふうっと息をつきながら、周子が放り出した筆を取り上げると、オイルで洗い始めた。
「デートの約束、忘れてたんだったりして」
何気なく、真理は言ってみる。そうしながら、鳥居の顔をちらりと見遣った。平静を装っていながら、少し曇った鳥居の表情に、真理は満足する。周子に浮いた噂のひとつもないことを知っていながら、その台詞を言ってみたのだ。
「……斐川さん、付き合ってる奴がいたんだ」
へえ、これは意外、といった趣で、鳥居が訊く。
「さあね、未確認だけど。でも、彼女まあまあのセンいってるし、彼氏がいたって、変じゃないわね。……あら、鳥居さん、帰るの?」
筆を洗い終え、真理が振り返ると、鳥居は自分の帰り支度をしていた。
「ここじゃ、いい絵が浮かばないからな」
「……って、キャンバス持って帰るつもりなの? まだ乾いてないのに」
キャンバスを注意深く手にして、鳥居が立ち上がる。
「家で描いたほうが、インスピレーションが湧きそうなんだ。まあ、気を付けていれば、他人に絵の具付けちまうこともないだろ」
ラッシュの時間じゃないことだし、と付け加える。
「じゃあ、後、戸締まりして鍵をきっちりかけといてくれよ」
ひらひらと手を振り、彼は部室を出て行く。
「そんなコト言って……。社会の迷惑じゃない! ちょっと、鳥居さん!? 私一人に後かたづけさせておいて、何かあった時どうするのよ!」
真理のその言葉には、何も答えずに鳥居は去っていった。
「……ったく、こんなことなら、詮索するんじゃなかったわ」
テレピン油の臭いの充満する部屋で、ひとり残された真理は、そう言ってぼやいた。
それは、暖かい雨降りの出来事。
とても不思議な光景が、誰もいない公園で繰り広げられていた。
周子は、その光景が目に焼き付いて離れなくなっていた。とても美しい少女が、雨の中、薄衣一枚で踊る、その光景が。だから、雨の日にはもう一度その光景が見られるのではないかと、急いで公園に走った。もう一度だけ、たったもう一度だけで構わない。その場面がどうしても見たくて、周子は雨が降るのを待ち望んでいたのだ。
――きっと、いる。
周子は、そんな予感を持っていた。ただの予感に過ぎなかったが、彼女がいることを願っていた。
総てが白く霞む、春の風景の中、そこだけが鮮やかな色彩を持って、周子の心に飛び込んできた。名も知らぬ少女。栗色の髪に、病的なまでに白い肌。室内着のまま飛び出してきたと思われるその姿は、サンダルをつっかけてきただけの素足、白い長袖のTシャツにロングフレアーのスカートという、春に埋没しているいでたちではあったが、強い印象を見る者に与えた。再びその光景を目にしたいと、渇望した。
その光景が、あった。
柔らかな春雨の降る、その中を少女は歩いていた。例えるなら、舞うような足取りで、傘も差さずに、歩いていた。
「こんにちは」
彼女は、周子の姿をその薄茶色の瞳に映すと、微笑みながらそう挨拶した。
「……こんにちは」
周子は少し面食らいながら応える。――鈴の鳴るような、そんな声だった。
「以前も、ここでお会いしましたね」
それは、ほんの一週間前のこと。
誰もいない、公園での出来事。
彼女は笑う。とても穏やかに。
「私、覚えています」
妖精のようだと、周子はぼんやりと思った。
「だって、みんなは雨を嫌うのですもの。嫌って外に出ようともしないわ。それなのに、あなたはこの公園を歩いていたわ。誰もいない公園を、傘を差して。だから、私、覚えているの」
周子は傘を彼女に差し掛けた。既にぐっしょり濡れていたけれど、雨がとても冷たそうに見えたので。
「風邪……、ひくわよ。それに部屋着のまま、出て来たんじゃない?」
前に見たのと同じ、白いTシャツとスカート姿の彼女は、少し驚いた様子で、周子を見上げた。少女だと思っていた彼女は、近くで見ると周子とほぼ同じ年齢と思われた。
「大丈夫よ。風邪をひいても、構わないの。せっかく雨が降っているのに、勿体ないじゃない」
「勿体ない?」
周子は訊き直した。
「ええ、そうよ。こんなに綺麗で、奇跡みたいなのに、何故みんなは嫌うのかしら」
雨は……、嫌い。
みんなそう言う。いや、そう言う人が、多くいる。
でも、奇跡みたいだと、言う人は知らない。
遠くで彼女を呼ぶ声が聞こえる。がっかりしたふうに、彼女は呟く。
「ああ、見つかっちゃったみたい。内緒で出てこなきゃ、表へは出られないのよ、私。そこのマンションに住んでいるのだけれどね」
彼女が指さしたのは、街中のいわゆる高級マンションというやつだった。
「私は狭山花苗というの。また今度、見掛けたら、声を掛けてね」
フワリと、彼女は周子の傘から抜け出した。周子に背を向け、軽やかな足取りで、雨の中を歩いてゆく。
「わ、私は斐川周子。周子って呼ばれているわ」
周子は慌てて、彼女の後ろ姿にそう叫んだ。その声に、彼女はゆっくりと振り返った。
「カナって呼んで。いつもそう呼ばれているの。さようなら、周子」
にっこりと微笑むと、花苗は小走りに駆け出した。薔薇の植え込みの向こう側におそらく母親だろうと思われる人が、現れる。
「だって、雨が気持ちいい……」
途切れ途切れに、花苗の声が聞こえる。
「それは熱があるからよ。お願いだから、部屋でじっとしていて頂戴。また入院するようなことになったら、どうするのよ」
言いながら、花苗にコートを着せ掛ける。
「雨の日に出掛けるのを止めろとは言わないから、せめて傘を差すかコートを着るかしてね、カナ。さあ。帰りましょう」
腕を掴んで、花苗を引っ張って連れてゆく。
「こんなに奇跡みたいに綺麗なのに……」
花苗は雨の雫に呟く。
「どうして、みんなは嫌うのかしら……」
歌うような囁きが、誰に言うともなしに、響いていた。
周子はしばらく、そのままたたずんでいた。何故かは分からなかったが、少しの間、雨を眺めていたい気分だった。
奇跡のような雨。
花苗がそう称した雨は、静かに降り続いていた。
「公園の絵だね、斐川さん」
部室でキャンバスを前に、椅子に座って本を読んでいた周子に、鳥居は声を掛けた。
「あ……、ええ、そう。すぐそこの公園よ。あそこ、好きなの」
周子は、目を上げて応えると、すぐにまた本を読み始める。
「キャンバスを前にして、何を読んでいるんだい?」
大雑把に淡い色彩で描かれている公園の絵には手を付けず、本を読みふける周子に、鳥居は訊ねた。
「気象学の本。雨はどこからくるかとか、雪の結晶がどうして出来るかとか、ま、そんな感じの本ね。――別に好き好んでこんなことしてる訳じゃないのよ。キャンバスが乾いてなかったから、今日は描くのを止めにしただけなのよ」
そこまで喋って、周子はふと、気が付いた。
「鳥居さん、パステル画にかえたの? キャンバスを持って帰ったって、真理が言ってたけれど」
ハードパステルが、鳥居の机の上に置かれていた。
「え……、ああ、こじゃ、いい絵が描けそうになかったからな。まあ、六月の大学祭には出品できるようにしておくよ。――最後だしな」
時は四月に入り、四年生になっていた。建築科の鳥居は就職を希望しているため、これから先、自分のためのまとまった時間が取れるのかは分からなくなる。優秀な成績の彼は、希望通りのところへ簡単に就職できるだろう。――漠然とした、将来への不安。彼はきっとそんなものを持っていない。多分、堅実な未来像を描いていて、その通りに生きてゆくのだろう。
周子はそんなことを思った。自分はどうだろう。迷っている。これから先のことを、どうすればいいのか、迷っている。世界が色あせて見えるのも、きっとそのせいだと、周子自身、気付いてはいるのだが、焦りと不安ばかりが押し寄せてきている。
「――そろそろ帰らないか? 薄暗くなってきたし」
鳥居はそう言うと、荷物をまとめ始めた。
「駅まで一緒にいこう」
周りを見回せば、室内にはふたりだけしかいなかった。新しい学年が始まったばかりで、皆忙しいのだろう。去年も五月にはいる直前まで、殆どの部員が顔を見せなかった。
「ええ。そのほうがいいわね」
周子は本を鞄に詰め込んで、椅子から立ち上がる。そして、ふたりで部室を出る。
「ああ、やっぱり降ってきた」
外へ出ると、雨が降っていた。正確には、降り始めたところだった。
「天気が悪いと、何か気分が荒むな」
言いながら、傘を差す。雨の雫が、傘の上を転げ落ちた。
「三月の風と四月の雨が、五月の花をつくるのよ」
「何?」
「イギリスの諺」
奇跡みたいに綺麗なのに……。
ふと、その花苗の言葉を思い出した。
(みんなは雨を嫌うわ)
花苗の感性がよく分からない。でも、彼女が気になってしょうがない。
楽しそうに、雨の中を歩く。彼女の周りだけが、色彩を持っている。
「斐川さんは、文学部だったね」
沈黙を恐れているかのように、鳥居が訊いた。
「そう、史学科美術史専攻よ」
学芸員になりたかった。だから、この方向を選んだのに、何かが違うと、このごろは思ってしまう。
そう、迷っているから、憧れてしまう。
欲しいものがあるのに、何かを求めているはずなのに、それが何かは分からない。だからきっと、憧れてしまう。自信を持って自分の道を歩いている人に。
恐らく、自分は誰かに助けてほしいのだ。でも、それでは根本的な解決にはならないことも、知っている。
「一応、大学院に進学を考えているけど、どうなるか分からないわ」
未来のことが、分からない。どうなるのか、どうしたいのか。
「鳥居さんは、就職でしょう? どう? 希望どうりに決まりそう?」
「……まあね。資格も取れそうだし、何とかなりそうだ」
沈黙が訪れる。宵の闇の中、それぞれの傘の中で、ふたりは黙り込む。歩きながら、ほかの話題が探せずに、駅まで何も話さずにいた。何故だか、とても気まずかった。
改札をくぐり、じゃあまた、と言って、別方向の列車に乗る。
(雨は……、嫌い)
周子は列車のガラス越しに見る雨に思った。確かに、鳥居の言う通り、荒んだ気分になる。薄闇の中、降る雨はよく分からなかったが、湿った大気が重く心にのし掛かってくるようだ。
(何が美しいと思えるの? 奇跡のように綺麗だと、どうして感じられるの?)
そう、未来への不安など、誰でも持っているも。自分だけが、苦しんでいるわけでは決してない。
勇気が……、ないだけ。立ち向かってゆけるだけの勇気が、この手に欲しい。
空虚に感じるこの心に、あふれるほどの力が欲しい。
きっと、だから憧れてしまう。彼に――、彼女に。
目に、心に焼き付いて、消えない。
三月の風と四月の雨が五月の花をもたらす。
イギリスでは、そういう諺がある。でも、ここは日本だ。雨の多い国だけれど、イギリスとは違う。春は菜の花が咲くころに菜種梅雨という雨がある。花を散らす雨。夏の前には梅雨があり、ひと月は降り続く。夏にはいれば入ったで夕立が降り、秋にはやはり冷たい長雨がふる。冬になれば雨は雪に姿を変え、地上に降りてくる。
水がなければ生きてゆけないけれど、たくさんの水は要らない。冷たい雨は、人の心を憂鬱にする。
周子は家に帰り着くまで、ずっとそんなことを考えていた。