ひとつだけ空いている



 ――どうしてあの時、微笑(わら)ってしまったのか、分からない。――


 何故、急にそんな言葉がアイツの口から零れたのか。でも、予感はあったのだと思う。
 抱き合う度、腕を回す背中が、日毎に薄くなっていくのを感じていたから。

 レミー・マルタンのエクストラをグラスに注ぎ、月のない夜の帳が下りるのを、静かに眺めていた。
 星が、いつもよりも輝きを強めていた。都会の、地上にあふれる光よりも、ずっと儚げで、触れれば消えてしまいそうな、輝きだけれども。
 「……話がある」
 静かな、夜だった。
 アイツが、そう切り出したのは。
 「別れよう」
 シンプルな言い方だった。
 その方が、お互いのためだと、アイツは淡々と言った。
 「そうか……」
  その通りかも知れない。――私はそう思って、アイツに笑い掛けた。そして、グラスを一気にあおった。
 ふたりだけの空間に、コニャックの甘い薫りが広がった。
 「それじゃあ“さよなら”だな……」
 こんな時でも、微笑むことが出来る、自分が嫌になる。
 ふたたび、グラスにコニャックを注いで、その透明な琥珀色に星明かりを透かしてみた。体温であたたまっていくにつれ、グラスからは甘い薫りが強く立ちのぼるようになった。――切なさが、心を占める。
 カチリと音がして、アイツが煙草に火をつける。ジッポーの炎が、端正なうつ向き加減の顔を照らした。
 ――どうしてこんなに好きなのだろう。
 惹かれている。
 その存在に。でも、もう傍らにいられない。
 理由も訊かなかった。
 訊いても、私達が別れるということは、決定事項なのだ。
 アイツがゆっくりと紫煙を吐き出す。
 グラスを片手に、ぼんやりとそれを見ていた。

 ――ずっと、傍に在りたかった。

 言葉にしたい想いがあるのに、喉に張り付いて出て来ない。
 乾いた唇を何度も動かすのだけれど、どうしても形にならない。
 「愛している」という言葉。
 愛されていると、信じられない。けれど、私の想いは変わらない。
 何度も抱き合って、キスを交わして、幾つもの朝を迎えたけれど、一度だって、互いの想いを打ち明けあったことなどなかった。

 今、そう思うのは、たぶんひとりになったから。
 ひとりで、この部屋にいて、その広さを感じているから。
 風が……、冷たい風が、窓を叩く。それは何処か泣いているようで、胸を締め付けられるような気になる。
 あの日と同じようにグラスを片手に、夜を眺める。

 あの夜、白い夜明けが星を連れ去って、アイツもこの部屋からいなくなった。
 最後に、キスをした。
 唇から、マルボロの苦さを感じた。
 「……煙草、やめろよ」
 私はアイツに言った。
 「キスが苦い」
 アイツは微笑った。
 「お前もアルコール、やめるんだな」
 再び、アイツの顔が近付いてくる。
 「そうしたら、考えてやってもいい」
 目を閉じて、唇が触れるのを感じる。――忘れないでいよう。腕を回した、その薄い体の感触と、触れる冷たい体温と。
 ずっと、本当は離したくない。
 離れたくない。
 けれど、それはもう出来ない相談。
 愛しくて、ただ、愛しくて、言葉にならない……。

 閉じていくドアが、ふたりを隔てる。
 涙が、頬を濡らすのに気付くのに、時間がかかった。
 “さよなら”と言ったのは、自分なのに――。
 どうしてこんなに悲しいのだろう。
 きっと、不確かな想いだけでは、引き留められない。迷う心は、ただ一点を目指しているのに、その行方が掴めない。

 ――今度、出逢えたのなら、間違いなく「愛している」と伝えるのに……。

 アイツの心が、私のところにないのだとしても、構わない。
 思い出になんて、出来ない。
 本当は、いつだって伝えたかったのに。
 傍にいるだけで、伝わっているのだと、そう自分に思い込ませていた。
 言葉にしなければ伝わらないことだって、たくさんあるのに――。

 ――ずっと憶えている 憶えている
 初めて知った後悔
 君を思い出だと笑い飛ばす
 私が今ほしい

 愛してるって言葉が
 ここを出たいと叫んでる

 ずっと憶えている 憶えている
 涙でうめてた場所
 今も忘れたくて 忘れたくて
 ひとつだけ空いている――

 「愛している」と言えなかった、天の邪鬼な私――。
 後悔なんか、してはいけないと、分かっている。
 そう、これは、永遠に苦しみ続けなければならない、私への罰……。

“ひとつだけ空いている” song by 吉岡忍
2000.09.12 up


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