――その手を、離さぬように……――
間接照明の灯りに、テーブルの上のバーボンが乱反射している。
真夜中――。
薄闇に目が慣れたころ、僕はベッドから起き上がり、隣に眠る人を眺める。
その頬に残る涙の跡。しかし、その表情は穏やかで、今は深い眠りの中にいる。
“愛している”と、君は言った。
互いの気持ちは、いつも同じ処にあったのに、確かめあったことなどなかった。けれど、やっとそれを言葉に出来た。
――“愛している”
その言葉ひとつで、こんなにも互いの存在が近く感じられるなど、思いもしなかった。
幾度も、出逢いと別れを繰り返してきたのは、確かなことをふたりの間に何一つ持っていなかったから。
僕らの恋は、擦れ違うことばかりで。
初めての夜でさえ、酔いが回っていて断片的にしか憶えていない。
そう。
君が一瞬見せた、その凄絶なまでの微笑みしか、僕は思い出せないのだ。
――“お前のことは、嫌いじゃないし、気にしていない”
あの朝、目醒めて、君は僕にそう告げた。
よくある話といえば、そうかも知れない。
“嫌いじゃない”という言葉は、とても微妙だった。
僕らの関係を運命付けているかのように。
その時には既に、互いが互いの存在に囚われていたというのに……。
いつの間にか、ふたりは独りになっていて。隣にいたはずの人は、去っていった。
どうしようもなく、惹かれていた。初めて逢ったその時から、たぶん。それを彼等は気付いていたのかも知れない。けれど、そのことを勘付くことすら出来ないほどに、君の存在に溺れていく。誰にも譲れない想いだけを抱えて、それでも動けずにいた。
あの夜。
ペース良くキツイ蒸留酒を空けてゆく君が、偶然、僕の隣に座った。
ほんのり朱がさした頬が、いつになく酔ったことを知らせていた。
その細い躯と面差しからは想像出来ないほど、アルコールに対しては強い君が、酔っている。
ゆっくりと目を閉じて、僕にもたれ掛かってきた。
「珍しいな、コイツが酔うなんて……」
「本当だ。……でも、相当飲んでるぜ。酒代、どうすんだよ」
そんなコト、知ったことじゃない。
「でも、寝ちまうなんて、意外だなぁ」
「ああ、絶対“絡み酒”だと思ってたぜ」
肩から、君の熱が伝わってくる。
その鼓動も、吐息も、本当に僕の傍らにあった。
「……俺、コイツ送って行くわ」
誰よりも、気の強い君が、どうしてこんな風になるまで飲んだのか、分からなかった。
「そうだなぁ……。道端に捨てていくわけにもいかねェしな。お前、淡白だから心配ねぇし」
何の心配なんだか。
とりあえず、二人分と思われる金を置いて、君を肩に担ぎ上げる。
「タクシー、来てるぜ」
仲間のひとりが、店の扉を開けながら、そう言う。
「サンキュ」
僕は微笑んだつもりだった。
「……送り狼になるなよ」
すれ違い様、ヤツは言った。
弾かれたように僕はヤツを見たが、すぐにドアは閉められ、都会の喧噪の中に僕らは取り残された。
「お客さん、大丈夫ですか?」
泥酔した君を担ぐ僕に、タクシーの運転手は手を貸そうと駆け寄ってくる。
「ああ、すみません」
何とか、君を後部座席に押し込むと、僕は隣に座る。
「どちらまで……?」
行き先を訊ねる運転手に、僕は一瞬言葉をつまらせた。
何処に住んでいるかを知らないわけじゃない。けれど、そこは僕が入り込めるような場所ではないような気がした。
そこは、僕の親友のいるべき場所だったはずだからだ。
僕は躊躇しながら、自分の部屋のある町名を告げていた。一人暮らしだが、部屋は余っているので問題はないはずだった。
――触れあう肩の、その温もりが、理性を揺らめかせる……。
部屋に着くと、僕は自分のベッドに君を横にさせた。
……大丈夫。まだ、理性は残っている。
眠っている君を起こさないように、サイドスタンドの灯りだけ点ける。そうして、僕は君に視線を移し、その眠りが浅くなっているのに気付く。
――その目が、ゆっくりと開かれていくのを、僕は祈るような気持ちで眺めていた。
「……目が醒めたか……?」
君に掛ける声が、震えていないか、心配だった。
「――酒……」
起き上がりながら、君が言う。
「止めとけ。飲み過ぎだ」
僕は隣に座ると、ポケットからマルボロを取り出し、火をつけた。
それを君は、緩慢な動作で奪うと、煙を吸い込む。
「誰が私が飲むと言った? キサマが酔っていないのが気に入らない」
紫煙を吐きながら、君が言う。
――充分、絡み酒じゃないか……。
溜め息をひとつ吐くと僕は立ち上がり、キッチンからアルコールの瓶とグラスを取ってきた。
君はまだ、煙草をふかしていて、僕が部屋に入っていくと、目を細めながらけだるそうに見た。
――間接キス。
馬鹿なことを一瞬考えたと、心の中で自嘲した。
「……いい趣味してるな」
カミュの XO。
その琥珀は透き通り、注ぎ込んだグラスから芳醇な薫りを漂わせる。
コニャックが特に好きなわけじゃない。
ただ、この上質なアルコールが、君を思わせたから。
「とりあえず、飲んでおけ」
灰皿で煙草を揉み消して、君は笑う。
その笑顔が、あまりにも綺麗で……。
グラスをあおるペースが、いつもよりも早くなる。
――夜の底が、深く深く、何処までも深くなってゆく……。
何処からか、記憶が途切れてしまっている。
気付くと君を組み敷いていて、けれど、君はその細い腕を僕の首に巻き付けて引き寄せると、唇を合わせてきた。
ずっと、その存在に囚われていた。
その鼓動を直に感じて、アルコールの所為だけではない、熱を帯びた素肌がしっとりと濡れていくのが、自分の手によるものだと思うだけで、愛しさが増してゆく。
――何処までも深く、堕ちてゆく……。
ただ、想いを確かめるわけでもなく、躯を繋げて。
それでも、愛しくて、愛しくて。
アルコールに麻痺した脳が、どうしてだか、一瞬だけ見せた、その凄絶なまでに美しい、君の笑顔だけを記憶に焼き付けていた……。
「愛している」
その言葉を、伝えられなかった。今日まで、ずっと――。
今、再び傍らで眠る君を見ながら、あの日のようにマルボロに火をつける。
そして、そっとその頬に残る、涙の跡を指で消してゆく。
君の瞳が、もう涙で濡れることがないように。
何処にいても、心だけは一緒にいよう。
ずっと、君を守り続けよう。
「……おやすみ」
愛しい人。
誰よりも、誰よりも。そう、この世界にあふれる、何十億という人々の中で、ただひとりの。
――この夜の果てが、来なければ、いい。
“愛しい人よGood Night…” song by B'z
Dedicated to TAMAKI.Thanx for 1000 hit!
2000.11.14 up