銀糸の雨 3



 部室を飛び出した周子は、そのまま傘をさすことも忘れて、走り続けた。幸い、雨足は鈍っており、気にする人もいなかった。
 逃げ出してしまった。
 周子は走った。走って、走って……、大学の構内を抜けても、まだ走り続けた。
 (私は、ずるい……)
駅の手前、公園に差し掛かったところで、ようやく足を止める。公園に入り、木陰で雨宿りをしながら、上がった呼吸を調えた。
 あんなふうな態度を、取るべきではなかった。
 呼吸が落ち着いたところで、髪や服の水滴を手で払う。雨の日の公園。肌寒い気候のせいか、誰も歩いていない。いつもの賑やかさからは、掛け離れた趣を見せる。周子は俯いて考えた。
 何故、逃げ出してしまったのだろう。逃げ出すことなど、なかったはずなのに。でも、こんな気持ちのままでは、彼と顔を合わせられない。きちんとした返事をしなければ、友人でもいられない。
 『少し、考えさせてください』
 そういうのが、精一杯。さよならも言わずに、彼に背を向けた。
 (ずるい……)
 震え出した体。速くなった鼓動。その理由を、知っている。彼のことを、嫌ってはいない。憧れているのだから。ただ、今の関係に満足していたから、それが壊れる瞬間に、恐怖感を覚えただけ。――周子自身、彼に好意を持っていたことに、気付いていなかったのを、思い知らされただけ。
 好きなら好きと、応えてしまえば良かったのに。彼の好きとは違う「好き」だけれど。でも、今の周子にはできなかった。焦燥した、劣等感の塊の自分に、自信なんて持てなかったから。勇気が、なかった。
 俄に、雨が強くなった。音が大きく響く。
 周子は顔をあげて、周囲を見渡した。薔薇の植え込みの向こうから、誰かがやって来る。周子はその人を待った。
 「こんにちは。また、お会いしましたね」
 軽やかな足取りで、その人は現れ、周子の姿を見付けると、嬉しそうに挨拶した。
 「こんにちは、狭山さん」
 周子も挨拶を返した。その言葉に、花苗は微笑んだ。
 「カナって呼んで。そのほうが慣れてていいの」
 言いながら、くるりと差していた傘を回す。
 「前と逆ね。今日はあなたが雨に濡れているわ」
 濡れた髪の周子を見て、花苗は言う。花苗は白いレインコートとブーツを身に付けていた。傘も白。栗色の髪を飾るリボンの色も白。春も終わりの頃だというのに、彼女は春に埋没したままの姿で……、そのまま時が留まってしまったかのような姿で、雨の日の公園に現れた。
 「今日は傘を差しているのね。珍しいわ」
 周子は花苗に言った。
 「外へ出るところを、母親に見つかって、着せられたの。特別に外出を認める代わりにってね。でも、文句を言われないから却って良かったのかも」
 クスクスと花苗は笑う。とても嬉しそうに、彼女は笑う。
 「特別にって……、どういう意味?」
 周子は訊いた。
 「私、明後日から入院するの。手術を受けなきゃいけないのよ。だから、今日は特別なの。雨降りに外を歩くのは、今日で当分の間、お預けになるもの」
 ――ああ、そうか。
 周子はなんとなく、納得した。花苗が健康な人間であるはずがないと、何処かで思っていたのだ。彼女の存在自体が、儚げで、奇跡のようだったから。
 「雨が、好きなのね」
 花苗があまりに自然に、どうってことないことみたいに入院のことを告げたので、周子もそのまま気にとめることじゃないと思い、受け流すことにした。
 「ええ、大好きよ。だって、こんなに綺麗なのに、嫌うなんて変だと思わない? もちろん、晴れた日も、曇った日も大好きだけど」
 傘の外へそっと手を伸ばし、雨の雫を感じながら、彼女は答える。
 「私ね、小さいときから体が弱かったの。雨降りは特に具合が悪くて、いつもベッドの上から窓の外を見ていたの。……その頃は雨なんか大嫌いだって、思っていたわ。でもね、ある時、雨って不思議だなって、感じたのよ」
 「不思議?」
 「そう、不思議よ。空から雨が降って来るって、どうしてだろうと思ったの。誰が降らせるわけでもないし、雨の降り方だっていろいろだわ。そうね、こんな銀糸のような雨が降る日だったの。――春先の。若葉が芽吹く頃に、煙るように雨が降り注いで、それがあがった後に、とてもいい香りが漂ったわ。たった一雨降っただけで、草木がこんなにもかわるのかって……。私が嫌っているものを、待ち詫びているものがあるって気付いた時に、雨は素敵だと思えるようになったの」
 銀糸の雨の、降り頻る。
 そう、雨上がりの大気の、清々しさ。大地を潤す水の大切さ。彼女はそれを心で知ってしまった。誰よりも確実に、本当のことに気付いたのだ。
 「私、雨はあまり好きじゃないの。何か憂鬱になるもの。でもね、あなたが言った通り、見方を変えれば違ったふうに感じるし、もっと好きになれるかも知れないわ」
 周子は知らず、笑顔になっていた。花苗の無邪気さの向こうの、その豊かな感性に近親感を覚える。辛いことが多いからこそ、何気ない日常に美しさを見付けられる。そんな気がした。
 「でしょう? もっと、雨を好きになって。この雨は遠くからやって来るのだもの。遠く旅して、ここに降り注いで恵みをもたらすのよ。こんな奇跡があるなんて、とても素敵じゃないかしら」
 雨は、この地の水が蒸発して天に昇り、再び降り注ぐわけではない。世界には、砂漠のように蒸発する水よりも降る水のほうが少ない乾燥した土地もあれば、逆にいつもたくさんの雨が降る土地もある。水の量は地球全体で常に均衡を保っていて、この雨は遠くの空からこの地に運ばれて、降るのだ。
 キラキラと大樹の葉から雫が落ちる。
 「本当。とても素敵ね」
 本当のコトが、たくさんある。
 目を閉じても、はっきりと思い浮かぶ、風景がある。色を持って、心に飛び込んできたその光景は、何よりも鮮明で、新鮮で鮮烈だった。感じる心を持っているのなら、とんなに些細な出来事も奇跡になる。奇跡のように美しいその雨の日の光景は、何よりも世界を素直に綺麗と感じることのできる、彼女の存在があったからこそなのだ。
 奇跡みたいに綺麗な雨が、降る。
 銀糸の雨が、降り頻る。それを美しいと感じる心を得た彼女。その瞬間から、花も風も木々も、そして空も、世界にあふれる総てが色を持ったのだろう。美しいものを美しいと、好きなものを好きと、素直に言える気持ち。輝きは、いつもそこにある。
 花苗は、真っ直ぐに周子を見た。澄んだ瞳が周子の姿を映していた。
 「……私、いつも特別扱いだったの」
 彼女は静かに話しはじめた。
 「中学校までは家の近くの公立に通っていたけど、休みがちで、友達はほとんどいなかったわ。高校はミッション系の女子校になんとか滑り込んだのに、長期入院で一度留年して、四年かかって卒業したの。……高校でやっと、本当にそう呼べる友達ができたけれど、やっぱり特別扱いされてた。みんな優しかったけれど、寂しかったの」
 花苗は語り続ける。
 「本当に、私はただ、普通に接して欲しかったのよ。出来ないことは多いけど、一緒にはしゃぎ回りたかったの。こんなふうにいっぱいおしゃべ喋りをして、笑い合って……。みんなが普段何気なくしていることが、憧れだったの。高校を卒業して、元気になりたくてずっと自宅療養してて、他の人が羨ましくてしょうがなかったこともあったけど、今はそんなことはどうでもいいの」
 花苗はとても綺麗に笑った。
 「嬉しいわ。あなたは私を特別扱いしないもの。こうして普通に接してくれる。私が明後日から入院するって聞いても、態度が変わらなかった人は、あなたが初めてよ。私は憧れを手に入れたわ」
 憧れの形。これがずっと欲しかった。ただ、腫れ物に触るみたいに扱われるのが嫌だった。他の人と変わらないのに、自分を避けているのが分かったから。知り合って間もない人も、自分が病気だと知ると、急に態度を硬化させる。触れてはいけないことに、みんなは臆病になる。一度でいいから、普通の人と同じように、接して欲しかった。
 雨降りは、嫌いですか?
 信じたかったことがある。多くの人が嫌う雨を、待ち望むものがあるように、ありのままの自分を受け入れてくれる人がいることを。その人に出逢うことなく生きていたら、嫌われものの雨に自分を重ねて、みじめな気持ちでいたのかも知れないけれど。ても、雨は恵みをもたらすから。雨は、忌むべきものではないと。それに気付いて欲しかった。嫌わないで。誰でもそうしたことのある、子供の頃のように、雨を楽しんで。
 ――譬え嵐が吹き荒んでも、その後に広がる青空を思っていて。
 「あなたはあなただもの。態度を変える必要って、どこにあるのかしら。心を傷つけない努力をしていれば、充分でしょう? 抱えている事情は、人それぞれなわけだし、私にだって触れて欲しくないコトはあるもの。何も関係はないわ。ただね……」
 心にある憂鬱。澱んだ気持ちは、彼への想い。けれど、今は微笑むことが出来る。
 「私はあなたのコトが好きよ。嫌う理由はないわ。当分、会えなくなるけれど、また偶然でもいいから、会えたらいいと思うわ。いつでもいいから。そうね、ずっとずっとあとの、年をとったお婆さんになった頃になってもいい。また、会いましょうよ」
 この、公園で。
 忘れられない、光景がある。その光景は何故だかとても綺麗で、心に鮮やかに刻み込まれた。誰もいない雨の日の公園。その大きな樹の下で、彼女は舞うような足取りで歩いていた。傘も差さずに、薄衣一枚で。そこだけ異国の風景を切り取ってきたような錯覚を覚えるほどに、新鮮で鮮烈な光景だった。
 きっと、忘れない。忘れられない、雨の日の出来事。たとえ彼女と知り合わなくても、心に焼き付いて離れない風景となったろう。――でも、出逢えて良かった。
 「ありがとう。きっと、また会いましょうね。いつかきっと、雨の日でなくても、お日様の下でも、会いましょうよ。たって、お友達ですもの。大好きだよ」
 花苗は笑いながら言う。満開の微笑み、こんなに綺麗に笑う人を、知らない。
 「じゃあ、そろそろ帰るわ。文句は言われないにしても、心配するから。……さようなら。本当に、約束よ。また会いましょうね」
 公園の大時計が、四時を指していた。
 花苗はふわりと身を翻すと、薔薇の植え込みのほうへ、歩き出した。
 「さようなら、カナ」
 唇から、自然に彼女の名が零れ出た。自分自身に、周子は少し驚いていた。
 足を止めて、彼女が振り返る。傘の中のびっくりしたような表情は、すぐにくすぐったいような、嬉しそうな顔に変わる。
 「さようなら、周子。会えて嬉しかったわ」
 離れた距離。少し大きな声で花苗は言い、手のひらを周子に向けて振る。
 「……ありがとう、カナ」
 周子は手を振り返し、薔薇の植え込みの向こう側へ消えてゆく、花苗の後ろ姿に呟く。好きなものを好きと、言える気持ち。もう少し時間がかかりそうだけれど、取り戻せる気がした。
 銀糸の雨は、降り頻る。
 雨で霞む視界の、消えてゆく花苗の姿に、周子は見たものがある。素敵な夢のように儚くて、綺麗なものだった。咲いたばかりの薔薇。
 雨は優しく降り注いでいた。


 六月の最初の月曜日から一週間、大学祭が行われる。模擬店やらイベントやら、公開講座やらいろいろなことが大学構内いっぱいに開かれ、一般の人も多数訪れる、賑やかな行事である。周子の所属する美術サークルも、日頃描いていた絵を展示する形で、教室をひとつ使って参加していた。
 「周子、鳥居さんの絵、見た?」
 模擬店の手伝いをしている周子の前に、真理が現れて、訊く。
 「いいえ、まだ見てないけど。……どうかしたの?」
 袖を引っ張る真理に、ちょっと眉をひそめる。
 「なら、早く来なさいよ。あんた、こんなコトしてる場合じゃないわよ」
 強引に真理はスペースから周子を引っ張り出した。
 「サークルのほうの手伝いしなかったのは。悪いと思ってるわよ。でも、模擬店のほうにお鉢が回ってきちゃったんだから、仕方ないって……」
 「そんなコト言ってんじゃないわよ。とにかく、こっちに来なさいって」
 腕を掴んで、真理はサークルの展示室へと、周子を引っ張ってゆく。
 教室いっぱいにディスプレイされた、多くの絵画。周子の作品ももちろんある。そのうちのひとつで、真理は立ち止まる。
 「ほら、この絵よ。鳥居さんが出品したの」
 周子に囁くように、告げた。
 ”MA CHERIE”
 それが題名。
 二十号キャンバスに描かれた絵を前に、周子は硬直した。
 明るい陽射しの、窓辺。光の中にいるのは、紛れもなく、自分の姿だった。眩しさにもたじろかず、真っ直ぐに光を見据える姿。彼が描いたとは思えない、柔らかな色彩で、しかも油彩独特の光の表現の生かされた、いい絵だった。
 横顔が、印象的に描かれていた。
 「“MA CHERIE”か。すごいストレートな題名つけるわね、彼」
 真理が意地悪そうに言う。
 「……どういう意味?」
 キョトンとして、周子が訊く。
 「へ?」
 「へ? じゃないわよ。単語の意味が分からないのよ。いったい何語なの?」
 ああ、と真理は納得した表情になる。
 「フランス語で『最愛の女(ひと)』って意味よ。英語でいうなら、”My Darling”ってトコかしら」
 「最愛の……」
 絶句する。
 クスクスとその周子の隣で、真理は忍び笑いをした。
 「私の言った通りでしょう? 絶対に鳥居さんは周子のコトが好きだって」
 言いながら、視線を室内全体に泳がせる。笑い声が、途絶えた。
 コツコツと足音が離れる。そして、ピタリと停まった。
 「『銀糸の雨』……か」
 真理が呟く。
 「何が?」
 展示された絵を前に、我に返った周子は聞き直す。
 「いい絵ね、これ。すごく暖かい気分になる」
 周子の絵は、「銀糸の雨」と題された公園の絵だった。咲き誇る薔薇に、柔らかな雨が降り注ぎ、その中心には虹が立つ、そんな絵だった。
 「綺麗な題名ね。水彩的な色使いだけど、周子らしい絵だわ」
 茶化すわけでもなく、真理は感じたままに絵を誉める。
 あの日、周子は虹を見た。
 世界で一番、小さな虹を。
 「……ありがとう、誉めてくれて」
 憧れの、形。虹を見たのは、錯覚。だけど、周子にとっては真実だった。雨が降る度、思い出す人かいる。
 「周子、やけに素直ね」
 真理はちょっと、小首を傾げて言う。
 「あら、私はいつだって素直よ」
 フフフ……と、周子は笑ってみせた。
 心の澱が、溶けて流れ出すのが、分かる。
 鳥居の絵は、憧れの形を描いたもの。周子の絵も、また同じ。明るいほうに向かって、真っ直ぐに進んでゆく姿。自分にはないと思っていた姿――。それをお互いに見ていたのだ。欲しいものは、自分の手の中に、既にあった。
 美しいものを美しいと、好きなものを好きと、言える気持ち。
 「ところで、真理。鳥居さんの居所、知ってる?」
 周子は、真理に訊ねた。
 「たぶん部室じゃないかな。傷んだイーゼルがどうこう言ってたから……」
 「そう、じゃあ行ってみるわ」
 軽く手をあげて、挨拶する。
 「絵の感想を言わなくちゃね」
 いたずらっぽく笑うと、クルリと背を向け、教室を出てゆく。
 「あ、そう……」
 唖然として、真理は周子の後を追う気にもならなかった。
 「私って、いったい何なのかしら。あの二人のコトで気を揉んで、損しちゃった」
 カリカリと頭を掻きながら、ゆっくりと真理は、廊下へ出る。開け放たれた窓から、心地よい風が吹き込んでくる。肩までの髪が、さらさらと揺れた。
 「うーん、いい天気」
 窓の外にひろがるのは、青空。白い雲が浮かんでいる。
 真理は大きく深呼吸した。


 構内全体が賑やかなお祭りムードに包まれているというのに、外れにある部室棟の辺りとなると、さすがに静かで誰もいない。周子は廊下を歩きながら思う。
 告白を受けてから、周子は意図的に鳥居を避けていた。言葉を交わすこともなく、この一月を過ごしてきた。心の準備が、出来ていなかったから。真摯な態度を見せた彼に対して、きちんとした応えを出さなければ、失礼だと思っていたし、何よりも気まずかった。
 コツコツという自分の靴音が響くのも、普段より大きく聞こえる。目的の扉の前に立つと、少しだけ緊張した。
 美術部。
 扉のプレートに書かれた文字が、掠れていて時代を感じさせる。周子は思い切って、その扉を開けた。
 ギィ……
 微かにきしむ音に、その人は振り返った。
 「やあ、久しぶりだね」
 ぎこちなく、その人は笑う。南向きの窓からの光が、部屋中に溢れていた。
 「絵を見た感想を言いに来たの」
 周子は、扉を後ろ手で閉めた。そして、あの日と同じように、二人きりになった。
 「とてもいい絵だわ。色彩もバランスも、何もかもがきっちり表現されていて、忘れられないくらいのインパクトがあるわ」
 周子の絵だった。柔らかな色彩の、素晴らしい絵だった。愛しさが、滲み出る。
 「……ありがとう」
 鳥居は少し、照れたようだった。
 憧れの形は、それぞれだけど、自分にないものを求める。それが分かってから、他人と比較して、ただ羨んでいた自分が馬鹿らしくなって、急に心が軽くなった。
 大切なのは、自分。
 奇跡を見付けるために、自分をしっかり持とう。何気ない日常に、美しさを見出せる、人間になろう。それは、きっと出来るはず。
 「……それから、あの時の返事をするわ。遅くなってしまったけれど、私、ものすごく一所懸命に考えたわ。それで出た答えなの」
 好きなものを、好きと、素直に言える気持ち。
 鳥居の唇が、きゅっと引かれる。
 「私、鳥居さんのコトは好きです。だけど、そういった意味ではないの。今のところは、友達としての好きなの」
 周子は、鳥居に近付いた。
 「……じゃあ、これから先も、友達ではいてくれるんだ」
 沈黙の後、鳥居は訊く。
 「ええ、もちろん。でもね……」
 すぐ近くに、彼がいる。築いてきた関係が壊れるのを恐れていたのは、彼も同じ。そして、壊れた関係を修復するのに、長い年月がかかることも、知っている。顔を合わせることすら、辛くなる。けれども、彼は選んだ。想いを告げることを。
 「こういう言い方って、ずるいと思うけど、あなたは特別なの。やっぱり友達には違いないのだけれど、気になるの」
 気付けば、目で追っていた。そは本当。心に嘘は、つかないで。
 「気になるのよ。これからもっと好きになるかも知れないし、ずっと友達のままになるかも知れないけれど」
 彼の目が、周子を映す。信じられないものを見るように、じっと見つめる。
 「それだけでは、駄目かしら」
 ずるいのは分かっている。最初に逃げ出してしまった時から。けど、これが一番自分の本心に近い応え。
 「――出来れば、好きになってほしいけどね」
 彼が、笑う。清々しく、曇りない笑顔。冗談めかしているが、彼の言葉は真実。偽りは、ない。
 「じゃあ、とりあえず、一緒にシャガール展へ行きますか?」
 おどけたような誘い文句。嫌味を感じさせない、彼の思いやり。
 「喜んで」
 周子もつられてクスリと笑う。
 六月の晴れた空に、笑い声が消えてゆく。
 美しいものを、美しいと感じる心。好きなものを、好きといえる気持ち。――奇跡はそこにある。
 例えば、銀糸の雨の降り頻る、あの日に彼女がいなければ、気付きもしなかったコトがある。遠く旅して降る雨が、大地の恵みをもたらすことや、雨上がりの薔薇や若葉の香り。奇跡は何処にでもあるものだと、知ることもなかっただろう。
 忘れられない、光景がある。銀糸の雨。開いたばかりの桜。若葉の香り。そして、薄衣一枚で歩く、妖精のような少女。誰もいない公園の大樹の下、傘も差さずに舞うような足取りで。目が合うと、彼女は声を掛けてきた。鈴の鳴るような声だった。話しをした。雨についての色々なこと、彼女のこと。
 私は憧れを手に入れたわ。
 それは、雨の日の出来事。彼女に出逢うのは、いつも雨降り。自分に素直でいることを、教えてくれた。
 目を閉じても、はっきりと思い浮かぶ、人がいる。もう一度出逢えるかどうかも、分からない人だけど。雨が降るたびに思い出すだろう。だけど、もし、再び出逢うとしたら、晴れた日がいい。雲ひとつない青空の、焼け付くような太陽の下で、彼女に出逢う。そんな予感がする。
 白い服を着た、栗色の髪と瞳を持つ少女。太陽の下では、きっと麦藁帽子をかぶって、少し日焼けした肌が、元気になったことを証明してくれるだろう。
 出逢えた奇跡に感謝しよう。偶然にまた会えたなら、どんなに時が過ぎ去ったあとでも、笑顔で挨拶をしよう。彼女も微笑み返してくれるはず。
 銀糸の雨と、彼女。
 ――永遠に、忘れない。


(了)
2001.02.03 up



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