「御園(みその)さん」 ……一体今までに、何回間違えられたのだろう。 私は溜め息を吐いた。 「御園生(みそのう)です。御園生香子(みそのう・きょうこ)。何か御用ですか?」 彼はニコリと私に向かって笑いかけた。 「君って、雨女だって噂、本当?」 バァーン……。 そう狭くないオフィスに、ファイルを机に叩き付ける音が響いた。 「……だったら、どうだっていうんですか?」 不機嫌を押し殺し、何とかそう訊ねてみる。 「いや、別にどうもしないけど」 コレ、頼むね、とファイルケースを手渡しながら、彼は続けた。 「ミソノさんが出席する行事は、屋内の方が無難かなと思って。俺、今年のレクリエーション担当だから」 じゃ、宜しく。そう言うと彼はオフィスを出て行った。 (名前、覚えなさいよ! 営業なんだから!) 笑顔だけは営業向きだったと、少し苛つきながら、ファイルケースを開く。 「何コレ! 未決済じゃないの!!」 やられた、と思った時には既に遅し。 営業部に慌てて駆け込んでも、彼は取引先に出かけた後だった。 私が所謂『雨女』だと言うのは、本当のコトである。 但し、秋だけの期間限定での話だ。 秋と言えば、天気が良ければ、本日は行楽日和で……というのが週末の常套句になるほどのレジャーシーズンである。ところが、私が出かけると、天気予報の晴れマークが一気に傘に変わるのだ。 その御蔭で、ついたあだ名が『時雨女』。 秋のレジャーには、いつしか呼ばれなくなっていた。(私が行かなくなったというのもあるけれど。) 別に……、今に始まった事じゃないし、名前を呼び間違えるのも、『雨女』と呼ばれるのも。 いつもの通り、淡々と過ごせば良い。 ただ、営業部の彼(安永譲というらしい。)の印象は、それだけで最悪のものとなったことは確かだ。 とにかく、明日にでも捕まえて、未決済の書類について文句を言っておかなければと、営業部の出社時間表を確認した。 翌日、10時の出社予定になっていた彼に会うため、営業部を訪れた。 「ルツー、総務の御園生さんがお呼びですよ〜」 ドア近くの手隙の人を見つけて、彼を呼び出してもらう。 「ルツ?」 どうやら彼の愛称らしいが、あの名前のドコをどうやったらそうなるのか、是非訊ねてみたいものだ。 奥のデスクにいた彼が、こちらを見ると瞬間的に笑顔になる。 大した営業魂だ。 「昨日の未決済書類、こちらで回そうかと思いましたけれど、不備がありましたので再提出お願いします」 「不備って、何?」 ……訂正。いくら社員同士、内輪の会話とはいえ、ほぼ初対面にタメ口はありえない。 「領収書、及び資料が不足しています。添付の上、上司の承認印をもらってから総務へお願いします」 あえて淡々と言った。 「あれー? 領収書、付けたはずなんだけどなー。ドコか落としたかな?」 きっちり閉まるファイルケースから、落ちるはずがない。その前に、糊で書類に添付するのが常識だろうがと呆れた。 手渡したファイルケースから書類を出し、ごそごそと漁っている。 「それじゃ、確かにお渡ししましたから、宜しくお願いしますね」 ただでさえ月締めの領収書が溜まってやって来る月末だ。こんなところで油を売っている暇はない。 「あ、ミソノさん! 待って!」 くるりと背を向け、さっさと仕事に戻ろうとすると、呼び止められた。 「御園生です! いい加減、ちゃんと覚えて下さい!」 「来月のソフトボール大会なんだけど、参加するよね?」 ……何、その決定事項。 「ほら、俺、幹事だしー。懇親会なんかの準備しないとイケナイんだよねー」 「不参加でお願いします。……どうせ私は雨女ですし、その方が色々と予定が安心なんじゃないですか?」 思わず吐き捨てるようにそう告げて、彼に背を向けて退出した。 失敗した……と思いながら、ここまで悪意なく自分の心をざらつかせる人間に出会ったのは初めてだと感じていた。 穏やかな人生を送って来たと、自負している。 その『穏やかさ』が私を冷たい人間にしたのかと思うときがある。 曖昧さを嫌う性格が、『曖昧』な世界を生きにくくしているのは、重々承知の上で、だ。 高校時代の友人の一人のように、男女問わず柔らかに接する事など到底出来ないし、不器用なのは判っているし、でもそれを「しょうがない」と笑って受け入れてくれる人たちがいたから、私は生きていられた。それほど心の中で、自分が馴染めない世の中に憤っていた。 高校を卒業して短大に進み、いざ就職……という段になって、私は困ってしまった。 それまでに培って来たスキルでは、あまりに私に合ない職種しか、選択肢がなかったからだ。 そこで、会計専門学校に入学をした。 経理の仕事は、自分でもあっていると思う。公認会計士を目指すほど勤勉ではなかったし、それなりにやっていれば、職にあぶれることもない。仕事に没頭していれば、苦手な会話も最小限で済むし、その他大勢の中にいれば、波風立たせる事もない。 要するに、今の生活は気に入っていた。 結婚する気もないし、誰かとつきあうつもりもない。 友人がいない訳ではない。ただ、積極的にかかわり合いたいと思わないだけ。 私が忘れていても、彼女たちが連絡をくれる。自然とそんな人たちだけが、私の交友関係のふるいにかけられて残った。 『ひとり』でいることに、孤独を感じない。むしろ、人ごみにいるとどうしようもなく寂しさを感じる質だ。 こうやって考えても、やはり私は冷たい人間なんだと思う。 今の会社に入社して五年。 そのやっと掴んだ『楽に息の出来る生活』。 きっと、このまま『ひとり』で生きて行くのだろうと思ったし、その術を得られて満足していたのに、そこに土足で入って来た『安永譲』という人物。 あれからレクリエーション担当だからと笑って、ことあるごとに総務の私の机にやってくるようになった。 その度に、神経を逆撫でされ、仕事を中断するハメになる私の身になってくれと言いたいが、そこは社会人として上手く受け流さなければならない。 御蔭で、この歳で愛想笑いを覚えた。 2011.11.12 up
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