明日の地図



 ――君を、失って――。


 きっと、別れて初めて気付いたのだと、思う。
 いつも、いつも傍にいたかったのは、僕の方だったということに。
 でも、遠く離れてしまうのに、これからの君の未来を、束縛する権利は、僕にはなかった。
 別れを言い出したのは、僕の方。
 君はそれを、笑って受け入れた。

 ――愛していると、言われたことなんて、なかった……

 エアポートから、何マイルだろう?
 新しい僕の居場所には、君はいない。
 ただ、それだけのことなのに、何故こんなに胸が痛いのだろう。

 恋をしていると確信していたのは、僕だけだったのかも知れない。
 もう君の心には、僕の形すら残っていないのかも知れない。けれど、僕は違う。――冷たい僕が、たった一度だけした、真実(ほんとう)の恋。
 愛しくて、愛しくて、本当はその手を離したくはなかった。
 数えきれないほど、抱きしめて、キスを交わして、そして――。
 幾つもの夜と朝を、ふたりで見つめた。

 それは、静かな別れだった。
 月のない夜、僕はグラスを手にした君に、さよならを告げた。
 傍にいられないのに、どうして繋がりを欲しがれる?
 君は、ふわりと微笑むと、「そうか……」と言って、グラスをあおった。
 部屋中に、コニャックの甘い薫りが漂った。
 それは、いつもと変わらない光景。
 それが、僕達の別れの儀式。
 白い夜明けが来て、最後に、キスをした。
 触れ合った唇からも、上等なブランデーの甘い薫りがした……。

 ――君の瞳が、暗く沈んでいたように見えたのは、きっと、錯覚――

 車窓からの風景は、夜になっていった。
 静かに暮れてゆく陽が、その朱に染まった空が、藍色に変わってゆくのを眺めつつ、切なさが隠し切れなかった。――そして、ふたたび、月のない夜が巡ってきていた。
 「星が……、綺麗だ……」
 驚くほどの、星の数。天(そら)を流れる星の大河が、はっきりと見える。こんなにもたくさんの星が、この夜空には存在していたのかと、感嘆した。
 星の地図を心に描く。あふれる星の中、星座を見つけるのも大変だ。あれは、カシオペア。だとすると、あれが北天の星。
 旅人は、星を見て行く先を確かめる。
 僕は、未来の地図を心に広げ、行方を探した。
 こんな星空を、君は見たことがあるのだろうか。
 そう思った瞬間、僕は大変なことを失念していたことに気付いた。
 ――誰よりも……、そう、誰よりも天の邪鬼な君を。

 あの時の、暗く沈んだ瞳は、錯覚なんかじゃなくて。
 絶対に本心を見せたがらない、君の精一杯の強がり。
 月のない夜の、星の瞬きが見せた、幻想……。

 抱きしめて、キスをして、そして、夜を重ねて。
 抱きしめたその鼓動の激しさを、触れ合う肌からの熱を、何故、気付けなかったのだろう……。
 誰よりも優しくて、誰よりも嘘つきな、君。
 冷たい僕の傍らに、いつも、いてくれた。心はいつも、寄り添っていた。
 「愛している」という言葉が欲しかったのだろうか?
 あんなにも、君は僕を大切にしてくれていたのに。一番大切な物は、いつだって、肝心な時に見えない……。

 きっと、君は泣いている。心が、迷っている。そして、その原因を作ったのは、僕だ。
 逢いたくて、ただ、逢いたくて、胸が締め付けられるように苦しい。けれど、もう、取り返しがつかない。
 せめて、約束をすればよかった。
 天の邪鬼な君との、不確かな約束を。
 もう一度、何処かで出逢えるように、心に地図を描いて、渡せばよかった。

 列車が、駅に滑り込む。
 荷物を抱えて、僕はホームに降り立った。
 ――今日から、ここが僕の住む街。そして、君はいない。
 「……逢いたいよ」
 せめて、もう一度。

 ――まだ描きかけの 明日の地図を
 あの人に あげればよかった
 迷わぬように 泣かないように
 またいつか 何処かで逢えるように――

 永遠の別れをした僕達には、後悔などしてはいけないことなのかも知れない。
 けれど、僕は君を想う。
 愛しさが、永遠の罪になる――。

“明日の地図” song by BAJI-R 2000.09.09 up


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